100億万点のアンサー
新世界が復興の光に満ち、人々の暮らしに科学が当然のように溶け込み始めた頃。
私は都心のオフィスビルにあるごくごく普通の一般企業で働いていた。
職場での私の名は石神香穂。旧姓を使おうとしたけど
あの稀代の天才科学者と同じ姓だけれど、同僚から「石神博士のご親戚?」と聞かれるたびに、私は千空に教えられた常套句で返していた。
「よく言われます。でも、私の地元ではそんなに珍しくない苗字なんですよ」
否定も肯定もしない曖昧さ。
『こう言っときゃ100億%それ以上追求してこねえわ』
ニヤリと笑う彼の顔を思い出しながら、私は口にしていた。
ある日の午後。
取引先が主催する“新世界復興フォーラム”に、私は同僚たちと一緒に参加することになる。
案内された大ホールの入り口で、私は足を止めた。
『基調講演:復興と科学のロードマップ 講師:石神千空』
「は?いしがみせんくう??」
大きな立て看板に躍る、見慣れた文字。
「うっわ!うっそ!ラッキー!石神博士ナマで見られるってこと!?」
「えっ、それ目的で来たんじゃないの?」
「全然知らなかったよ!ご招待枠最高〜!」
はしゃぐ同僚たちの横で、私の心臓は嫌な音を立てて跳ね上がった。
(マジかあ……)
思い返せば今朝の身支度の際に、千空がなにかボヤいていた気がする。
(そういえば、ゼノさんになにかを押し付けられただのなんだのって千空言ってたっけ。これかあ)
しかし会場は数千人を収容する巨大なホール。
壇上から見たところで、私がここに来ることも知らない千空が米粒ひとつを見つけるのは至難の業。
どうせ私に気づくことなんてないだろう。
たまには博士な千空を見るのも悪くないか。と、自分に言い聞かせて席に着いた。
フォーラムが始まり、数人の知識人による退屈な演説が続く。
会場全体にあくびの気配が広がり始めた頃、世界を救った偉人、石神千空が満を持して登壇する。
ほとんどが千空目当てであろう会場は、地鳴りのような拍手と歓声が巻き起きた。
しかし当の千空はそんな歓声など聞こえてないかのようで、片手をスラックスのポケットに突っ込み耳をほじりながらマイクの前に立つと、気だるげに会場をぐるりと見渡した。
一瞬、数千人の聴衆がひしめく中で、彼の赤い瞳が私の場所で止まった気がした。
けれど彼はすぐに視線を外し、不敵に笑う。
「あー、まあ、眠くなるような面倒な話は先に聞いたろ。俺の話は気楽に聞いてくれ」
その、家で見せるのと変わらない態度に、私は思わずクスリと笑った。
講演が始まると、空気は一変する。
千空は、誰もが日常的に使っているものを例に挙げ、身近な科学についてユーモアを交えて鮮やかに説いていく。
さっきまで死んでいた聴衆の目が、一斉に輝き出すまでにそう時間は掛からなかった。
会場が盛り上がれば盛り上がるほど、私の胸の奥には、しんと冷たい影が落ちていく。
(遠い……)
壇上で未来を語る千空は、世界を導く『みんなの石神千空』だ。
同じ石神という名で呼ばれているのに、その重さは天と地ほども違う。
広いホールの空調の音だけが耳に障る。
数千人の拍手は、まるで遠い波音みたいに自分を置いてけぼりにしている気がした。
(私、やっぱり千空の隣にいない方がいいんじゃないかな……)
そんな卑屈な思考に飲み込まれそうになった、その時。
壇上でスポットライトを浴びて輝く赤い瞳が、真っ直ぐに私を捉えてきた。
(え、こっち見てる?)
「あー、そこの……G列の23番か?その白いシャツの女性」
なぜ席番号!?どうやって?会場がざわめく。
「こういうところは壇前からA列って決まってんだよ。席番はあとは数えればわかるだろ」
隣に座る同僚がG列ここ!!と、慌てて席番号を確認する。
「21、22、23っ!石神さん!石神さんだよ、立ちなよ!」
肩を叩かれ、私はおぼつかない足取りで立ち上がった。
スタッフがマイクを運んできて渡される。マイクを握る手が急激に冷えていき、カタカタと震えだした。
「名前は?」
「……あっ、えっと……石神、香穂です」
会場に「石神?」というさざ波が広がる。当然だ。講師と同じ苗字の女性がピンポイントで指名されたのだから。
けれど千空は、まるであくびでも出そうなほど退屈そうに言い放った。
「あー騒ぐな。石神村のヤツらもほとんど石神だ。旧世界だって1000人以上はいたぞ。
そもそも俺の地元じゃ珍しくねえわ」
(地元じゃ珍しくないって……千空と百夜さんのふたりのことなのにね)
「じゃあ、石神香穂、クイズだ。旧世界もこの新世界も、石の時代を終わらせた科学は何だと思う?」
私の脳裏に、かつて科学館で二人きりで解いた宝探しの記憶が蘇る。
あの時、千空が私にだけ教えてくれた答え。
──『知恵』と『火』の科学だろ。
(……覚えてたんだ)
千空は、最初から私を見つけていた。
震える指先でマイクを握りしめた。喉が張り付いてうまく声が出ない。
でも、壇上の千空がニヤリと笑った瞬間、不思議と唇が動いた。
「……知恵と……火……」
絞り出した私の答えに、千空は最高に満足そうな顔で笑う。
「クククッ……正解だ、100億万点やるよ」
マイクをスタッフに渡し席に座った瞬間、視界が涙で歪んだ。
「石神さん!?大丈夫!?感動しちゃった?」
(これは、私だけに向けたメッセージだ)
同僚の声を遠くに聞きながら、私は溢れる涙を何度も拭った。
*
フォーラムが終わるやいなや、私は駅へと走り、改札を駆け抜けた。
夕闇の迫る道を、息が切れるのも構わずに家へと急ぐ。
マンションの扉を開けると、そこにはさっきまで数千人の視線を浴びていたはずの窮屈なジャケットが、リビングのソファに無造作に放り出されている。
「よう、石神香穂……ククク、おせーんだよ」
目の前にいるのは、いつもの、口の悪い私の旦那様。
私はコートを脱ぐ間も惜しんで、その胸に飛び込んだ。
「千空……!!」
細いけれど、世界で一番確かな体温を持った腕が、私の背中を包み込む。
「……千空。さっき……みんなの博士になっちゃったみたいで、寂しかった……」
私の情けない呟きに、千空は鼻で笑った。
彼は私の肩を引き寄せ、耳元で、壇上のマイク越しでは決して出さない、低くカサついた夫の声で告げる。
「あんなもん外面だろ……いいか、どこの誰が俺を『石神博士』と呼ぼうが、そんなもんはただのラベルに過ぎねぇ」
千空の手が私の後頭部に回り、ゆっくりと、いつもの落ち着いたリズムで髪を撫で始めた。
「んなもん全部テメーの夫やるついでだわ」
「……ついでのレベルがデカすぎる」
「勝手に一人で迷子になってるクセに、文句だけはいっちょ前だなテメーは」
千空の胸から伝わる鼓動が、私の不安をすべて溶かしていく。
たとえ彼がどれほど世界に求められる存在になっても、この人が帰ってくる場所は、私の隣。
「……なら私も普通の社会人やるついでに、石神博士の嫁もやろうかな」
「おい、社会人の方が優先かよ」
呆れたように笑う彼の腕の中で、私はようやく深く、深く息を吐いた。
世界中が彼を称賛しようとも、この人が帰ってくるのは私の隣だ。
そう誰かに言いたくなった、そんな日だった。
「だって嫁の方は終身雇用でしょ?」
「違いねえ」