3日間の空洞 Another story

「夜はカフェイン厳禁だ」 「うん」 「風呂出て髪乾かしたら、さっさと寝室行け」 「わかった」 出張の荷造りをしながら、千空は何度も同じことを繰り返し言っていた。 「ソファーで寝落ちすんなよ」 「わかってるってば」 「最悪眠れねぇときは、大の字に寝て、目閉じて深呼吸してろ」 「それ、さっきも聞いたから!」 呆れ半分で笑いながら、香穂はベッドへ寝転がる。 千空の出張はこれが初めてというわけでもなく。従来であれば高校時代からの妥協案である、通話を繋いだままにした『睡眠導入コール』さえあれば、香穂の入眠ルーティンも事足りる話だった。 けれど、今回の行き先は電波すら届かない未開の観測地点。 「……付いてくるか?」 荷物を詰めながら、千空がぽつりと聞いた。 「……えっ、電波も入らないところなんでしょ?また変な虫とかいっぱいいる」 「まあ、アマゾンほど危ねえのはいねえ」 「……うーん、でも、やだ……」 「まあ、そう言うとは思ったが」 「宝島みたいな、海のきれいなところなら行ったのになあ」 「観光じゃねぇんだよ」 「知ってるー」 明日からの3日間、ふたりは完全に通信を絶たれる事になる。 「千空、そんなに心配しなくても3日くらい大丈夫だって!」 荷造りの手を止めた千空が、ベッドから身を乗り出して覗き込んでくる香穂を見上げた。 「こちとら、不眠に関してはプロなんだから!」 そう言ってわざと明るく笑ってみせるが、千空は心底嫌そうに眉を寄せた。 「……ハッ。んなロクでもねぇプロ、あってたまるか」 そのまま立ち上がる。 次の瞬間には、逃がさないみたいな力で香穂の身体を強く抱き締めた。 「……なるべく早く、帰る」 耳元で落ちる低い声に、香穂は小さく笑う。 「うん……待ってるね」 そう言って、一緒に眠ったはずだったのに、翌朝目を覚ますともう千空の姿はなかった。 隣へ手を伸ばすがとっくにシーツは冷えており、香穂が起きるよりずっと前に出て行ったのだとわかる。 ぼんやりした頭のまま天井を見上げた。 (ああ、もう行っちゃったんだ) たったそれだけのことなのに、胸の奥が少しざわついた。 眠い目をこすりながら寝室を出る。 ふらふらとキッチンへ向かったけれど、コーヒーを淹れた形跡すらない。 (たぶん、私を起こさないようにそのまま出て行ったんだ……) 千空がラボへ缶詰になって、朝になっても帰ってこないことなんて珍しくない。こんな静かな朝だって、今まで何度も経験しているはずなのに。 今日は、なんだか違った。 (行ってらっしゃい、言えなかったな) 起こしてくれればよかったのに、なんてそんなことを考えてしまうあたり、もうだいぶ駄目な気がした。 小さく息を吐いて、仕事へ行く準備を始める。 玄関で靴を履こうとした時、ドアにマグネットで留められたメモに気付いた。 『気をつけて行けよ』 雑な字。紙の端には、いつもの千空マーク。 香穂はそのメモをそっと剥がすと、ぎゅっと握りしめたまま玄関を出た。 * なんとかその日の仕事を終えて帰宅する。ひとりで夕飯を食べて、風呂へ入った。 ドライヤーで髪を乾かしながら、ぼんやりリビングへ戻る。 「せんくー、お風呂どうぞー!」 いつもの癖で声を掛けた瞬間、リビングの静けさが返ってくる。 (あ、いないんだった) 急に部屋が広く感じた。 なんとなく静けさに耐えられなくて、テレビをつける。 適当に流したバラエティ番組の笑い声だけが、やけに大きく響いていた。 もそもそとベッドへ潜り込む。 左を向けば、いつも千空が寝ている側。右を向けば、眠るまで髪を撫でてくれる手を思い出す。 どちらを向いても落ち着かなくて、結局、香穂は仰向けになった。 眠い。ちゃんと眠いはずなのに、身体のどこかがずっと緊張している。 静かだった。 時計の針の音ばかりが、やけに大きく聞こえる。 眠いのに、意識が落ちない。 眠気と緊張が、ずっと喧嘩していた。 その日ようやくうとうとし始めたのは、深夜をとうに過ぎ、遠くの車の音すら消えた頃だった。 * 数時間だけ落ちた意識から、無理矢理引き上げられた朝。 頭の奥が鈍く脈打っていた。 「あたまいた……」 完全に寝不足の時に来る頭痛だ。 香穂はぼんやりしたまま、こめかみを押さえる。 一晩経っても、ベッドの左側は空いたままだった。 視界へ入るその空白から目を逸らすみたいに、香穂はゆっくり身体を起こす。 眠れていないせいか、身体が妙に重い。 鏡の前で髪を整えながら、小さく息を吐いた。 まだ2日目なのに、そんな言葉が頭をよぎる。 いつもなら余裕で座れる時間の電車なのに、その日に限って車内はやけに混んでいた。 座りたい。頭が痛い。 押し込まれる人波に揺られているうちに、だんだん気分まで悪くなってきて、耐えきれずに一駅手前で電車を降りた。 「……あと一駅だし、歩こ……」 歩いて疲れれば、今夜は眠れるかもしれない。 そんな淡い期待を抱きながら、重い足を無理やり前へ出す。 朝の空気はまだ少し冷たくて、ぼんやり熱を持った頭には気持ちよかった。 けれど、歩けば歩くほど身体の芯がじわじわ軋む。ぎしぎしと音を立てているかのように、ずっと身体のどこかがおかしい気がした。 会社へ着いてしまえば、考える暇はなかった。 資料、メール、確認作業に電話と、仕事をしている間だけは余計なことを考えなくて済む。 始業前に飲んだ頭痛薬も効いていたのか、その日はほとんど勢いだけで仕事を片付けていった。 ありがたいような、ありがたくないようなそんな忙しさだった。 気付けば終業時間。 席を立った瞬間、身体が鉛みたいに重いことに気付く。 「あー……つかれた……」 誰に言うでもなく小さく呟いた。 帰りの電車では、今度はちゃんと座れた。 窓へ額を預け、揺れる景色をぼんやり見つめているうちに、何度か意識が落ちかけた。 けれど、家へ着く頃にはまた頭だけ妙に冴えていた。 玄関の扉を開ける。 真っ暗だった。 千空より先に帰宅した日はいつだってこうなのに、今日に限ってその暗さが妙に心細かった。 部屋の静けさが、胸へじわじわ入り込んでくる。 なんだか無性に耐えられなくなって、香穂は逃げるみたいに部屋という部屋の灯りを全部つけて回った。 リビング、キッチン、廊下、全部明るくしないと駄目な気がした。 リビングへ戻り、テレビを点ける。 帰りに買った弁当はテーブルへ置いたまま。食欲なんて全然なかった。 香穂はソファーへ膝を抱えて座り込む。 バラエティ番組の笑い声だけが、やけに賑やかに響いていた。 まだ22時。 こんなに夜が長いと思ったことなんて、ない。 頭痛薬の効果はとっくに切れていて、頭の奥ではずっと鈍い痛みが脈打っている。 お風呂入らなきゃ。髪も洗って乾かさなきゃ。 そう思うのに、身体が動かない。 ソファーへ沈んだまま、ただ時間だけが過ぎていた。 結局、音だけ流していたようなテレビを消し風呂へ向かったのは、日付が変わったあとだった。 眠気はない。 ただ、身体だけが異常に疲れている。 (……これなら寝れるかも) 淡い期待を抱きながら、香穂は風呂上がりのままベッドへ倒れ込んだ。 「髪乾かせ」と、頭の中で千空の声がする。けれど、ドライヤーを持つ気力すら残っていない。 布団へ潜り込んだ瞬間、不意に隣のスペースの広さが気になった。 そこにあるはずの体温、聞こえるはずの落ち着いた呼吸音、その空白を意識した途端、一瞬芽生えた眠気がすうっと遠のいていく。 香穂は千空に言われた通り、大の字になって深呼吸を繰り返した。 『最悪眠れねぇときは、深呼吸しろ』 閉じた瞼の裏で、何度も千空の声を再生する。 眠い。 ちゃんと眠いのに、意識が落ちない。 身体は限界なのに、心臓だけがずっと落ち着かなかった。 結局その日は、香穂は朝まで眠れなかった。 * 3日目の朝は最悪だった。 結局一睡もできないまま、無情に鳴り続けるアラームを止める。 身体が重い。起き上がったあともしばらく香穂は、ベッドの端へ座り込んでいた。 やたら顔が火照る。息苦しい。頭は昨日よりもっと重い。立ち上がるまでに、妙に時間がかかった。 昨夜から何も食べていないはずなのに、空腹感すらない。 朝食を作る気力もなければ、あれほど毎朝の楽しみだったコーヒーですら飲みたいと思えなかった。 ただぼんやり着替えて、家を出る。 今朝できたのは、それだけだった。 会社へ着いてしばらくした頃だった。 「……さん!石神さん、大丈夫!?」 突然聞こえた声に、香穂ははっと顔を上げた。 気付けば床へしゃがみ込んでいた。 散らばった書類と、周囲のざわめき。同僚が心配そうに覗き込んでいる顔。 「あ……すみません……」 慌てて拾おうとしたものの、うまく指へ力が入らない。 「顔色すごいよ?大丈夫?」 「ちょっと寝不足で……」 掠れた声が、自分でも驚くほど弱かった。 「早退したら?ふらふらだし、だれか迎えに来てもらった方が良いんじゃない?旦那さんとか?」 その言葉に、香穂の動きが止まる。 「あ、いや……今、出張で……」 言いながら、自分で改めて突きつけられる。 ――いない。 胸の奥がずきりと痛んだ。 「寝不足なだけなんで、大丈夫です……」 そう言ったものの、膝が震えて立ち上がれず、見かねた同僚が身体を支えてくれた。 「ほら、ゆっくり」 「……すみません」 散らばった書類まで拾ってもらい、香穂は小さく頭を下げる。 それだけで息が上がった。 足元がふわふわしている。 壁伝いでないと歩けそうになくて、香穂はゆっくりフロアへ戻った。 その後も、なんとかデスクワークだけはこなしたが、内容はほとんど頭へ入っていない。画面を見ているだけで目の奥が痛むようだった。 さすがに千空も不在のこの状態で、電車へ乗るのは危険だと思い、帰りだけタクシーを使ったが、家へ辿り着く頃にはもう限界だった。 頭だけでなく胸の奥も、ずきずき痛み出し、玄関を開るとそのまま灯りもつけず寝室へ向かった。 鞄を放り出し、着替えもせずベッドへ倒れ込むと、たどり着いたことにホッとしたのか、ほんの一瞬意識が飛んだ。 気付けば、香穂は千空が寝ている側へ丸まっていた。時間にしてわずか数分ほど。 (このまま寝落ちできればよかったのに) 一瞬意識が途切れたせいで、さっきより余計に目が冴えてしまっていた。 脳は眠気を訴えているのに、心臓だけが落ち着かない。 広い。ベッドが、広すぎる。冷たい。 「……っ」 香穂はふらふらと起き上がると、クローゼットを開けた。 奥へ丁寧に畳まれていた千空の予備のパジャマを引っ張り出し、それを抱き締めると、再び布団へ潜り込んだ。 洗剤の匂い。 その奥に、ちゃんと千空の匂いが残っている。香穂は思わず、ぎゅっと布地へ顔を埋めた。 (……3日って、こんなに長かったっけ) 千空が隣にいれば、1週間だって一瞬なのに。 千空がラボへ泊まり込む夜も、出張で居ない夜も、今までだって何度もあったはずなのに。 同じ日本のどこかにいる。ただそれだけで、私はちゃんと眠れていたんだ。 暗い場所で目を閉じていると、石化していた頃を思い出す。 どこにも千空がいなくて、世界の音どころか、すべてが暗闇で、途方もなかったあの頃みたいに、また置いていかれた気がして怖かった。 でも、あの時とは違う。 明日になれば帰ってくるんだ。 ちゃんと、帰ってくる。 その確定した未来だけが、今の香穂をなんとか繋ぎ止める。 大丈夫、そう心から思えてやっと眠れそうな気がした。 「……おやすみ、千空……」 小さく呟く。 その声を最後に、香穂の意識はゆっくりと深い眠りへ沈んでいった。 * 翌朝、夜明けとほぼ同時に、玄関のドアが静かに開いた。 龍水へ無理を言ってヘリと自家用機をねじ込ませた千空は、靴を脱ぎ捨てる勢いで寝室へ向かう。 ドアを開けた瞬間、その動きが止まった。 布団も掛けず、千空のパジャマを抱き締めたまま、香穂が小さく丸まって眠っている。 千空は乱暴なくらい雑に布団を掛け直すと、香穂の顔へ掛かっていた髪を指で払い、そのまま首元へ手のひらをすべらせた。 熱はない。呼吸も深い。 なんとかひとりで落ちたのだろう。 着替えた形跡もなければ、目元には化粧の名残まで残っている。 限界まで保たせて、そのまま電池が切れたみたいだった。 「……3日でこれかよ」 呆れたみたいに吐き捨てながら、その声はどこか安心したように掠れていた。 千空は起こさないよう静かにベッドへ上がると、香穂の身体を自分の方へ引き寄せる。 無意識なのか、香穂はすぐ千空の服を掴んだ。 「……ハッ」 小さく笑う。 「だから言ったろ。ロクでもねぇプロだってな」 胸元へ擦り寄ってくる体温を抱え込むようにしながら、千空もゆっくり目を閉じた。
2026/05/23 Another storyを見つけてくださってありがとうございます。 今ある3日間の空洞の元となるおはなしです。 最初に書いたのは2026/04でした。 そこから何度か書き直していて、これ(2026/05版)で完成かなとは思っていたのですが どうも納得いかず結局また保留フォルダに突っ込み、 でもやっぱり何らかの形で、千空のいない時間を書きたくて今の形になりました。 なのでこの話はあくまでアナザーストーリーということで、 こっそり記憶にとどめてもらえればな、と思います。 みつけたよ、と拍手頂けるとうれしいです。

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