爆遅で爆速の最短ルート
ホワイマンとの激闘も終わり、復興の足音が世界中で鳴り響き始めた、ある日の午後。
「暇なら来い」という千空の言葉に甘えて、彼のマンションを香穂が訪ねた日のこと。
千空のマンションのリビングには、場違いなほど現実的な静寂が流れていた。
千空は香穂の分のコーヒーを淹れ、ソファーで何かを書き込んでいる彼女の横にマグカップを置こうとして、その紙のタイトルに目を剥いた。
「あ、千空。コーヒーありがとう」
「……は?なんだこれ」
「……え、履歴書だけど?」
香穂は笑顔で答える。
「ゼノさんとの研究も一段落したし、私のお手伝いもこれで終わりでしょ?龍水さんに借りてるホテルも出なきゃだし、そろそろ自立しようかなって」
千空の脳内に、警告音が鳴り響く。
今後も当然のように香穂を助手として据えるつもりでいた千空にとって、それは寝耳に水だった。
香穂は、千空や龍水、ゲンといった偉人たちの中で、特別な能力を持たない自分だけが、ここに居続ける理由がないような気がしていた。
ゼノとの研究も一段落し、自分の役目ももう終わった。
最近は、あれほど眠りが浅かった不眠症も落ち着き、一人でも熟睡できるようになった気がする。
──なら、そろそろ千空のそばを離れて、自分の生活を始めるべきなんじゃないか。
そう考えての、就職活動と部屋探しだった。
もっとも、不眠症が落ち着いたのは千空が夜な夜な忍び込んで寝かしつけていたからなのだが、香穂本人は知る由もない。
そんな決意を秘めた香穂を、千空は鳩が豆鉄砲を食ったような顔で見つめる。
「しかも…なんだこの求人先は。一般企業の事務?なにがおもしろくてテメーが今さら事務員なんだ」
「失礼だなぁ。あとね、さっき賃貸情報誌ももらってきて……ほらみて!アパートも今探しててさ」
「は?ここに越せばいいだろ」
千空の口から、迷いなくその言葉が飛び出した。
「え!?ここ分譲でしょ?買えないよ!私一人だもん、賃貸で十分だよ」
「……なんで買うこと前提なんだ。じゃなく、この部屋に住めっつってんだよ」
「えええ!?いやいや!!ダメだよ千空!!恋人でもない人をほいほい住まわせるなんて言っちゃ……」
香穂の言葉に、千空の眉がピクリと跳ねた。
あのストーンワールドで、千空が土下座までして想いをぶつけ合ったあの日。
千空は当然、二人の関係は確定しているものだと思っていた。
だが、彼が人類の救済と復興開発に没頭し、この関係に【明確なラベル】を付ける儀式を怠っていたせいで、香穂の中では「勘違いだったのかも」という不安が作動してしまっていた。
「……ふざけんな。就職も、アパート探しも、1ミリも許せねぇ」
「なんで!?私たち、結局なんの関係でもないんだから、許すとか許さないとかないでしょ!?」
「は?……っ、テメーは!まだそんなラベルが必要かよ」
「当たり前だよ!世界を救った石神千空博士の横に、ただの幼馴染の岩瀬香穂がいるなんてどう考えたっておかしいでしょ!?私はそんな、タングステンみたいな強メンタルじゃないの!」
香穂の叫びに、千空は深くため息をつき、頭を乱暴にかき上げた。
論理的に説明する時間はもうない。
この逃走経路を、今ここで完全に封鎖する必要がある。
「……わかった。なら、結婚するぞ」
「けっ……えっ!?ん?んんっ!?」
「世界を救った石神千空、その隣にいるのは妻の石神香穂。これなら100億%文句ねぇだろ。肩書きに不足はねぇはずだ」
──結婚
その言葉が、香穂の脳内でようやく意味を結び始める。
これまで明確なラベルがないことに不安を感じていた自分が馬鹿らしくなるほどの、あまりにも重くて、あまりにも千空らしい答え。
結婚する。千空と。
ずっと欲しかったはずの言葉なのに、いざ差し出されるとあまりにも突然すぎて、頭が追いつかない。
それでも、断る理由なんてひとつもなかった。
「……わかった。結婚して、ここに引っ越す。でも、お仕事は自分で探したところでいいんだね?」
「そこは妥協する気ゼロかよ」
「これだけは絶対妥協しない」
「……ったく……まあいいか。結婚承諾するなら日中の数時間くらい」
千空は、はあと大きく息を吐くとソファに深く背を預けた。
「……っし、交渉成立だ」
そう言って、テーブルの上の賃貸情報誌を取り上げる。
「これはもういらねぇな。ホテルも引き払え。今夜からテメーの家はここだ」
「えっ、今夜から!?」
「結婚するっつったのはテメーだろ。今さら別居する理由がどこにあんだよ」
千空は立ち上がると、まだ状況に追いつけていない香穂の頭を乱暴にぐしゃりと撫でた。
これが、のちにラボの面々が「あの石神千空が、爆速最短ルートで結婚した」と語り草にする、石神夫妻の始まりの瞬間だった。
そして千空は、本当にそこからが速かった。香穂が状況を飲み込む頃には必要な手続きはすべて終わり、二人はあっという間に夫婦になっていた。
*
窓の外からは、春を予感させる柔らかな朝日が差し込んでいた。
まどろみの中で、ふと左手の薬指にひんやりとした硬質な感触が走った。
金属が肌に触れる微かな冷たさに、私はゆっくりと瞼を持ち上げる。
ベッドの傍らに腰を下ろし、私の左手を両手で包み込んでいる人影があった。
「……」
千空だった。
無言で、私の指に嵌まったばかりの指輪をじっと見つめていたが、私が起きたことを察し、静かに顔を上げる。
「……起きたか」
千空は私の指を離さないまま、朝の低い声で語り始めた。
「この指輪……地金は百夜が集めたプラチナを配合してある。ダイヤは俺がラボで結晶成長させた特製だ」
指先が、指輪の上のちいさく透明な結晶をそっとなぞる。
「……香穂に渡すなら、この組み合わせしかねぇと思って、だいぶ前から用意してた」
百夜が、未来のために途方もない時間をかけて集めた不変の輝き。
そして、千空が積み上げた科学の結晶。
「……あー、なんだ。爆速最短ルートを選びすぎて順番が完全におかしいが」
千空は一度言葉を切ると、意を決したように、すぅ……と大きく息を吸い込んだ。
「……改めて言っとく。俺と結婚して、テメーに妻のラベルを貼らせてくれ」
あまりに無防備で、あまりに真っ直ぐな言葉。
私は胸がいっぱいになって、シーツを握ったままゆっくりと身体を起こした。
千空は私の左手を離さない。引かれるように身体を寄せれば、すぐ目の前に赤い瞳があった。
「……もー、寝起きだし、髪もボサボサなのに……こんな時に言うなんて」
「んな見てくれなんざ、1ミリも関係ねぇわ……返事は?」
射抜くような瞳が、答えを待っている。
「そんなの最初から『はい』か『YES』の二択しかないんじゃないの?」
「ああ。そうだな、100億%それしかねぇわ」
千空は満足げに口角を上げると、心底嬉しそうな笑みを浮かべた。
その表情を見た瞬間、私の心からもすべての不安が消えていく。
「ふふっ……じゃあ、答えは『はい』で」
「……っし。契約成立だ」
千空はそう言うと、サイドテーブルから自分用の指輪を取り出した。
私のものと同じ、重厚な輝きを放つプラチナの地金。
ただ、そこには石は付いていない。
「俺は作業の邪魔になるからな……こうして身に付けるのが合理的だ」
手際よくシルバーチェーンにリングを通すと、私の目の前でそれを自分の首にかけ、服の中に滑り込ませた。
「……ラベル付け……遅くなって悪かったな」
「ほんとそれ!!3700年も待ったっ!遅すぎっ!」
「爆速なのが爆遅どっちかにして!」
そう言ってふたりで笑った。
薬指に残る冷たい感触は、いつの間にか私の体温を吸って心地よい温かさに変わっていた。