不器用な月夜の先に、続いていく当たり前の夜明け
高校に入学して数ヶ月。
香穂の脳内には、ある違和感が居座り続けていた。
(……やっぱり、私たち、ちょっとおかしいよね?)
7歳のあの日から、千空の寝かしつけなしではまともに眠れない身体。
幼い頃は隣の幼馴染と過ごすで済んでいたが、大人の体格に近づきつつある今、それは明らかに異常な執着に分類される。
自立を試みた香穂は、千空を自分の部屋に招くのを一度やめた。
だが、重度の不眠症は、理屈では改善できない。
結局、妥協案として落ち着いたのは、夜通し通話を繋ぎっぱなしにする睡眠導入コールだった。
スマホ越しに聞こえる千空のキーボードを叩く音。それが今の香穂にとって唯一の安定剤だった。
『…………おい。寝れねぇのか?』
静寂を割って、スピーカーから低い声が響く。
香穂が寝返りを打ち、シーツが擦れる微かな音を、千空の耳は逃さなかった。
「……うーん、だめかも。今日、全然眠気が来ない……」
『…………チッ、しゃーねぇな。待ってろ』
「えっ、千空……?」
問いかけるより先に、ポロンと無機質な切断音が響く。
数分後。
ベランダのガラスを、コンコン、と叩く硬い音がした。
香穂が弾かれたように起き上がり、カーテンを開ける。
そこには、月明かりを浴びて、銀色にキラキラと髪を輝かせた千空が立っていた。
「……っ!!」
慌てて鍵を開け、窓をスライドさせる。
夜風が部屋に流れ込み、カーテンを大きく揺らした。
「あぶないよ千空!ここ何階だと思ってんの!?」
「ハッ。隣同士なんだから、ベランダの隔て板越えりゃ0.5秒だろ。玄関回ってインターホン鳴らすより、ここから来るのが最短だ」
千空は手慣れた動作でベランダの手すりを離し、香穂の部屋へと足を踏み入れる。
窓一枚隔てた隣に住んでいるという物理的な近さを、彼は最大限に利用していた。
口では危ないと怒りつつも、千空が来たことに安心している彼女を見て、ニヤリと不敵に笑う。
千空は香穂の学習机から椅子を引っ張り出すと、手慣れた動作でベッドサイドに据えた。
「ほら寝ろ。通話がいいだの、直接がいいだの……お贅沢な幼馴染様のための特別コースだ」
「……直接がいいなんて言ってないし」
言い訳を口にしながらも、香穂は素直にシーツの中に潜り込む。
「じゃあ帰るか?」
「…………やだ」
香穂が布団の端をぎゅっと握って千空のシャツの裾を掴むと、千空はほらなと言わんばかりの満足げな顔で、彼女の頭に大きな手を乗せた。
「……今、なにやってたの?」
「あァ?シミュレーションだ。燃焼率の……」
「いや、いらない、いらない。そういうのはいい」
「そうか?即落ちできんぞ」
「うーん、せっかく近くに居るし…撫でてくれる方がいいな……」
千空が呆れたように笑うと、香穂の頭をぐしゃりと撫でた。
指先がゆっくりと髪を梳かし、いつものリズムで耳の後ろを撫で始める。
香穂は、気持ちよさそうに目を閉じる。だが、今日はそれだけでは足りなかった。
「千空、お贅沢ついでに……もうひとつお願いしてもいい?」
「なんだ?」
「…………一緒に、寝よ?」
千空の手が、一瞬だけ止まった。
赤い瞳が暗闇の中で香穂を射抜き、やがて呆れたような吐息が漏れる。
「ハッ。たしかにお贅沢様だな、テメーは」
バサリと布団が捲られ、千空が香穂の隣に滑り込んでくる。
「……もっとそっち行け。狭ぇだろうが」
「無理だよ!もう壁だもん!」
「……チッ。さすがにシングルじゃもう無理だな」
幼い頃は並んでも余裕があったはずのスペースは、成長した二人の身体にはあまりにも窮屈だった。
腕を置く場所すらなく、必然的に二人の肩や足が密着する。
子供の頃とは違う、ゴツゴツとした男の骨格と、熱い体温。
「せまい」
「しょうがねえだろ。テメーが言ったんだぞ。ほら、くっついて寝ろ」
千空が腕を広げると、香穂は待ってましたと言わんばかりにその胸元に顔を埋めた。
「……千空、いい匂いするね」
「あァ?洗濯洗剤の香料だろ」
「わかんないけど……すっごく、落ち着く……」
「……そーかい」
千空はそう答えて、香穂の頭をもう一度撫でた。
やがて腕の中から規則正しい寝息が聞こえ始める。
その音を聞いているうちに、千空の瞼もゆっくりと重くなっていった。
*
翌朝。
午前7時のアラームが鳴る少し前、香穂の部屋のドアがノックもなしに音を立てて開いた。それがこの家の、不眠症の娘を起こすための長年のルーティンだ。
「香穂、そろそろ起きないと……あら」
母親の言葉が途切れた。
視線の先、シングルベッドの上で、二人の高校生が絡まり合うようにして深い眠りに落ちていた。
香穂は千空のシャツの裾をぎゅっと掴んでその胸元に顔を寄せ、千空もまた、香穂の髪に顔を埋めるようにして彼女を抱き寄せている。
(……やっぱり、千空くんが来てたのね)
母親は、驚くより先に小さく息を吐いた。
数ヶ月前から「通話越し」に切り替えたと聞いていたが、久しぶりに見る娘の寝顔は、いつになく穏やかだった。
「ほら、二人とも。起きなさい」
「…………っ!!?」
その声に、千空の脳内に電流が走った。
跳ね起きるように上体を起こし、眼前に立つ香穂の母親と目が合い、顔を強張らせた。
「………………お、おはよー……ござい、ます……」
「千空くん、おはよう。香穂も、ほら、起きて顔洗ってきなさい」
千空は、まだ隣で「んー……」とむにゃむにゃしている香穂の無防備な寝顔と、あまりにも普通な対応を崩さない母親を交互に見た。
こんなに熟睡する予定ではなかった。香穂が寝落ちたら、すぐに自室に戻るはずだったのだ。
「千空くんも、ごはん食べて行きなさい。準備できてるわよ」
母親はそれだけ言い残し、颯爽と部屋を出ていった。
リビングの食卓には、わかめのお味噌汁の香りが漂っていた。
父親は既に出勤した後のようで、三つの席に朝食が並べられている。
目玉焼きにごはん、お味噌汁。そして岩瀬家の定番である小さなヨーグルト。
千空が幼い頃から何度もご馳走になってきた朝食だ。
「……いただきます」
千空は行儀よく手を合わせ、箸を取った。
その向かいで、香穂は久々の熟睡の余韻か、ぽやぽやと半分魂が抜けたような顔でお味噌汁を啜っている。
「千空くん」
母親が、お替わりの茶碗を置きながら、ごく自然なトーンで切り出した。
「次からは、何時になっても構わないから。……ちゃんと、玄関から来なさいね」
「あ?……あの程度なら落ちっこねぇわ。ベランダ伝いのほうが速ぇ」
千空は目玉焼きの黄身を潰しながら、平然と言い放った。
だが、岩瀬家の母親はニコリと笑って、最強のカードを切る。
「あのね、千空くん。速いとか、落ちないとか。そういう理屈を言ってるんじゃないのよ。万が一のことがあったら、海外で頑張ってる百夜さんに、おばさん顔向けできないでしょ?」
「……っぐ」
百夜。
その名前を出された瞬間、千空が停止した。
海外に居る父親の話題を出されては、千空はぐうの音も出るはずがない。
「わかった?」
「……」
「返事は?」
「……へいへい。わかったよ」
千空は視線を逸らし、ふてくされたようにヨーグルトを口に運んだ。
そんな千空の様子を見て、香穂が「千空、お母さんに怒られてる」と、爆発した頭のままクスクスと笑う。
「半分以上テメーのせいだぞ」
「私わるくないもん」
「いやどう考えてもテメーのせいだろ」
その後、千空は岩瀬家のサンダルを借り、玄関から堂々と帰宅した。
これ以降、千空が香穂の部屋を訪れる際、玄関から正式訪問する回数は飛躍的に増えた。
もっとも、母親の目が届かない深夜には、相変わらずベランダからやって来ることもあったが。
そのことは、二人だけの秘密だった。