君の限界を拾い集めて、平熱の朝を待つ夜
帰りの電車に揺られながら、窓の外の流れる光をぼーっと眺めていた。
なんだか気力がない。
いつもなら帰りの電車で、今夜の夕飯はなににしようだったり、千空の方が早いかな……など帰宅後の事を考えてウキウキしているというのに。
今日は1ミリもそんなことも考えられず、私はただただ振動に身を任せ、瞬きだけを繰り返していた。
自分の降りる駅が来て、席を立ち、改札をくぐる。
一斉に駅を出ようとする人の流れに乗り、特に意識をするでもなく惰性で駅の階段を降りた。
駅前の看板たちが眩しく輝いている。
空腹に刺さる魅惑的な香りも、有名人が美味しそうに食べている広告も今日に限っては目が滑るだけで気に留めることも出来なかった。
自宅マンションまではわずか数分の距離だったが果てしなく遠いような、それでいてあっという間のような、地面がぐねぐねとしているような、早く帰りたい、でも、帰りたくない、自分でも何を考えているのかわからない、前に進むのがとても辛い。
あまりのつらさに立ち止まった。
バッグからスマホを取り出しマップアプリを開く。
(千空、もう家かな)
『もしもに備えて俺のGPSも共有しておく』
ストーンワールドであれほど焦がれていたスマホが、半導体のおかげであっという間に完成すると、千空は私のスマホにマップアプリを入れ、真っ先に居場所の共有をしてきた。
『えっ?私は別に気にしないけど。千空、私に位置確認されて気持ち悪くないの?』
『あ?俺はほぼ家とラボの往復だけだぞ?それにテメーに隠すような位置情報なんかねえわ』
気軽に位置確認しろ、と言われその時は気軽の意味に首を傾げたが、いざ使ってみれば便利なもので、家からラボまでのわずかな距離でも、もう帰ってくるかな、だったり、遅くに起きてくる日はもう起きてラボ行ったのかな、とたしかに気軽に使わせてもらっていた。
そして今開いたマップアプリでは、千空の位置はまだラボ。
(今日は遅いのかな)
メッセージアプリを立ち上げ、慣れた手つきで入力した。
『今日はもうすぐ帰ってくる?』
ほとんど即レスに近い速度で来た返信には『わりぃ、もう少しかかる』の一言。
まだ会えないのか、と、がっくりと肩を落とし、重い足を引きずりながらマンションへと向うのだった。
エントランスを抜けエレベーターに乗る。
千空が最上階直通として設置したこのエレベーターはセキュリティーパスを持ってさえいれば何のボタンも押さずにエレベーターは開き、最上階の自宅までたどり着く。
今日のようなボタンを押すことすら億劫な、何の気力もわかない日にはありがたすぎる仕様だ。
ポーンと甲高い音がなり目的地の自宅階へと到着する。
自宅の扉が見える頃には重すぎる足は、さらに泥沼にはまったかのような重さへと変わっていた。
鍵を開け靴を脱ぐ。
揃えるのも億劫で足から放り投げられた靴は、ドアにコツンと音を立てて当たり、ボトリとたたきに落ちた。
バッグを放り、コートとジャケットを脱ぎ捨てる。
電気も付けず真っ暗な室内を進む。
勝手知ったる我が家の配置は暗闇でも問題はなく、一直線にお気に入りのソファーへと飛び込んだ。
はあ……とひとつ大きく呼吸した。
やっと息ができたような気がする。
ソファーに身体をめいっぱい預けると、意味もなく涙が溢れてきた。
なぜ泣いているのか自分でもわからない。
とにかくなぜか悲しかった。
どれだけ時間が経ったのかひとしきり泣いて、泣いて、また泣いて、上まぶたが重くヒリヒリとしてきた頃、玄関の扉が音を立てて開いた。
「ただいま……は?なんで真っ暗……?」
千空が、靴を脱ぎ手探りで照明の電源を探している。
ほどなくしてカチリと音を立て照明が点灯した。
千空は、脱ぎ捨て放り投げられ散らばった私の残骸を拾い上げながら、まっすぐにリビングへと向かってくる。
リビングと廊下を繋ぐ開きっぱなしのドア越しに、ソファーに沈んでいる私を見つけ目を見開いた。
「……どうした?」
手に持った荷物をすべて床へ置きソファーの横へと駆けつけると、すぐさましゃがんで濡れたわたしの頬を拭った。
「なんで泣いてた?なんかあったのか」
「……わかんない。なんかぐるぐるして、泣きたくなった……」
わたしなんか千空に見合わない、足手まといだ、千空が遠い。と思うがままにブツブツ言って泣いているわたしの額から首筋を、千空がペタペタと触っていく。
「……平熱より高ぇな。オーバーヒートの予兆か」
疲労かストレスの蓄積か、はたまたそれとは違う要因か……
風邪ではなく単純に熱だけを出す私のデメリットを、千空はオーバーヒートと呼び、はいはいデトックスデトックスと言わんばかりに解熱していくのだ。
「……わかんない」
「わかんねぇでいいから、喋れるうちに寝室行くぞ、肩貸す」
千空の肩を借りて、ずるずると足を引きずりながら寝室へ向かった。
何度もオーバーヒート見てきたが、予兆がメンタル下降パターンは初めて見たな、と言う千空にわたしは、足手まといすぎるごめんと泣く。
「足手まといなんて言ってねえわ、泣くな」
ぶっきらぼうに言いつつもそっとベッドに横たえてくれる千空に、優しすぎる、わたしにはもったいない、とまた泣いた。
「グズグズ言ってねえで、ほら寝ろ……あー、熱一気に上がったな…38.5、いや39はあるか」
千空はキッチンへ向かい、自作の経口補水液を準備すると、すぐにベッドサイドに戻ってきた。
私の頭を少しだけ持ち上げ、ゆっくりと飲ませてくれる。
飲み終えた私を再び寝かせると、彼は手際よく私の首筋や脇の下に冷却材を差し込んでいった。
「……千空、忙しいのに……ごめん。私……いつもこうやって、千空の邪魔ばっかり……」
涙がまた溢れて、枕を濡らしていく。
それを見た千空は、コップを置くとベッドの端に腰掛け、私の耳の後ろに指を滑り込ませた。
「足手まといなんて言ってねえわ。テメーまだ、んなこと思ってたのかよ。勝手に決めんな」
千空のひんやりとした指先が、耳の後ろをなぞると、後頭部の髪をゆっくりと解きほぐしていく。
「……だって……」
「テメーが寝てねえ方がよっぽど面倒だ。いいから寝ろ」
千空はそう言って、真っ赤な顔で泣きじゃくる私の額に、こつんと自分の額を預けた。
「……ほら、笑え。テメーはアホみてえに笑っててナンボだろ」
「……う、……っ、あはは……なにそれ……ひどい……」
千空の不器用な言葉に私はやっと少しだけ表情を緩めた。
「心配すんな、いつも通り付いててやる」
「無理してない?」
「してねえ。むしろ放置しろってほうが無理だ」
「……ありがと千空。大好き」
「……ああ、知ってる、ガキの頃からな」
千空の指先が何度も髪を梳く。
私は久しぶりに、心の奥底から安心して、深い深い眠りへと落ちていった。
*
昨夜のあの、地面がぐにゃぐにゃと歪むような重苦しさが嘘のように、頭の中がすっきりと晴れ渡っていた。
カーテンの隙間から差し込む朝日は眩しくて、でもどこか優しくて。
私はゆっくりと寝返りを打ち、自分の左手を目の前に持ってきた。
プラチナの地金に、千空が作り出したちいさなダイヤがキラリと光る。
「……あ、生きてる」
自然とそんな言葉が漏れた。
そして、覚醒と同時に、私の内臓が猛烈な主張を始めた。
ぐうぅぅぅ……。
「……お腹、すいた……」
昨夜は千空が飲ませてくれた補水液以外、何も口にしていなかった。
熱が下がって代謝が元に戻った証拠だ。
私はふらふらとベッドを抜け出し、千空の気配を探して寝室のドアを開けた。
リビングへ向かうと、キッチンの方からカチャカチャと、小気味よい規則正しい金属音が聞こえてくる。
そこには、昨夜のYシャツ姿のまま、腕まくりをして鍋を覗き込む千空の背中があった。
朝日が、白地の生地越しに彼の細身ながらも確かな存在感を持つ肩のラインを浮き彫りにしている。
アイロンの効いていたはずのシャツには、一晩中私の傍らで椅子に座り続けていたことを物語る、細かなシワが深く刻まれていた。
無防備な背中を眺めていると、胸の奥が熱いものでいっぱいになって、喉がツンと震えた。
「……千空、おはよ」
声をかけると、千空はぴくりと肩を揺らして振り返った。
その赤い瞳の下には、昨日より少しだけ深い隈ができている。
……あぁ、やっぱり。一晩中、私のことを見ててくれたんだ。
「……起きたか。熱どうだ?こっち来い」
千空は手際よく火を止めると、近寄ってきた私の首筋に、いつものように手のひらを当てた。
「……平熱だな。アホほど泣いてスッキリしたか」
「ありがとう、もう大丈夫」
「ならいい」
「うん……千空、あの、ね?」
「あ?」
千空の顔を見上げると、昨夜の情けない自分を思い出して少しだけ照れくさかったけれど、それよりも優先すべき生理現象が口をついて出た。
「……お腹すいた。すっごいお腹すいた」
私の直球すぎる一言に、千空は一瞬だけ呆気に取られたように瞬きをした。
けれど、すぐにクククと、肩を震わせて笑い始める。
「ハッ!昨夜あれだけ悲劇のヒロイン面して泣きじゃくってた女の第一声が、食欲の申告かよ。唆るじゃねぇか。生命力の勝利だな」
千空は私の頭をぐしゃりと乱暴に撫で回すと、キッチンの方を指差した。
「まあ経口補水液だけじゃ腹も減るか。リゾット出来てんぞ、食えよ」
テーブルの上には、丁寧に整えられたリゾットと、温かいスープ。
玄関に散らばっていた私の靴も、放り投げたコートも、今は綺麗に片付けられている。
私は席に着き、スプーンを手に取った。
一口食べると、優しい味が全身に染み渡っていく。
「……おいしい。千空、ありがとう」
「礼なんていい。……それより、香穂。一つだけ言っておくぞ」
千空は私の向かいに座り、コーヒーを啜りながら、じっと私の目を見つめた。
「いいか?『私なんて』は禁止だ。次に口にしてみろ。100億%、俺がテメーの口を塞いで、二度と言えねぇようにしてやるからな」
「……塞ぐって、どうやって?」
私が首を傾げると、千空はニヤリと笑い、自分の唇を指先でトントンと叩いた。
「……実力行使だな。今、テストしてみるか?」
「……っ!! ……い、いらない!」
私は真っ赤になってリゾットを口に運んだ。
昨夜の涙が嘘みたいに、いつもの朝が戻ってきていた。
千空の淹れたコーヒーの匂いと、温かいリゾットと、目の前にはいつもの千空。
それだけで、今日はきっと大丈夫だ。