千空少年とはじめての看病
あれは、俺が初めて香穂のオーバーヒートに直面し、今まで以上に過保護になるきっかけの日だった。
「よし、今日はこれだな【月の満ち欠けと潮汐力の相関関係】これなら香穂も即寝落ちだろ」
風呂上がり、俺はいつものように隣へ持ち込む読み聞かせの本を選別していた。
もはや、あいつを眠らせてから自分のベッドに戻るのが、俺の毎晩のルーティンになっていた。
だが、部屋のドアをノックする音が響き、百夜がひょっこりと顔を出した。
「千空、香穂ちゃん具合悪いらしいから、今日寝かしつけ無しだってよ」
「……あ?具合わりぃ?」
俺は手に持っていた本を、机の上に無造作に放り出した。
下校時のあいつは確かに少し口数が少なかった気もする。
だが俺が喋り倒している間、いつも通りニコニコと頷いていた。
「……ハッ。どうせ腹でも壊したんだろ」
ぶっきらぼうに返し、俺は積み上げられた本に手を伸ばす。
だが。
(……なんか落ち着かねぇな)
読書を始めて10分。いつもなら隣で香穂が寝息を立て始め、俺がその寝顔を眺めている。
それが無いというだけで、俺の集中力は散漫していた。
今考えれば、下校時のあの口数の少なさや、いつもより高かった手のひらの温度、やけに潤んでいた瞳。
それらはすべて香穂の体調不良の予兆だったが、この時の俺はそんなこと知るわけがない。
結局、その夜の読書は1ページも進まなかった。
翌朝の登校前、俺はランドセルを背負うなり、玄関を飛び出して隣のチャイムを鳴らした。
「香穂。ガッコー行くぞ」
いつものようにドアが開き、ふらふらと現れた香穂の姿に、俺の動きが止まった。
「…………っ、……お、おい」
パジャマ姿の香穂は、額に冷却シートを貼り、頬を熟れたトマトみたいに真っ赤に染めて立っていた。
瞳は熱でとろんとしていて、焦点もあやふやだ。
「……せんくー、おはよ。今日おやすみする……いってらっしゃい」
ふらつきながらも、あいつは俺を見て、へにゃりと笑う。
思わず手を取ると、香穂の手は焼けるように熱かった。
「……テメーバカか!いいから黙って安静にしてろ!!」
怒鳴るように言い捨てると、胸の奥がキリキリと痛んだ。
香穂が奥へ戻るのを見届け玄関を出ようとした時、香穂の母親が声をかけてきた。
「千空くん、心配してくれてありがとうね」
「……風邪か?」
「違うのよ、たまに熱だけ出すの」
聞けば香穂は、昔から風邪はほとんどひかないそうだ。
いつもお元気いっぱい走り回るのに、年に数回、急に熱だけをボンッと出すことがあるらしい。
「不眠症のせいなのか、それとも疲労をためやすいのか、よくわからないんだけどね……」
よくあることだから気にしないでね。数日すれば元気になるから、また来てね。
そう言って香穂の母親は玄関のドアを閉めた。
俺はさきほど握った香穂の熱い手を思い出し、そのまま駆け出す。
(……っし!帰ったらすぐ看病してやっからな!)
ランドセルの中で、教科書が騒がしく音を立てていた。
*
1時限目、国語。「大きなかぶ」の音読。
いつもなら適当に聞き流して、教科書を横目に科学の本を眺めている時間だ。
だが、今日の俺の脳内のほとんどを、今朝見た真っ赤な頬の香穂が占拠していた。
俺は鉛筆を握る手に力を込めた。
香穂の両親は共働きだ。百夜もあてにならねぇ。
あいつが今、一人で熱と戦っていると想像するだけで気が気ではなかった。
「この時、おじいさんはどんな気持ちだったとおもう?じゃあ、千空くん」
教師の呼びかけに、俺は椅子を蹴るような勢いで立ち上がった。
「一刻も早くカブを引き抜き、次の農作業へ移行したいという、労働生産性の向上を求める焦燥感。以上」
「えっ、あ……ええと、そうだね」
呆気にとられるクラスメートと先生を尻目に、俺は看病に必要な物のリストをノートに書いていた。
*
ついに、下校を告げるチャイムが鳴り響いた。
(……待ってろ。帰ったら俺が見てやっからな)
先生が「さようなら」を言い切るより先に俺はランドセルを背負い、教室から駆け出した。
「……クソ、指が震えてやがるっ」
マンションの廊下を走り抜け、俺はポケットから岩瀬家の合鍵を引っ張り出した。
石神家と岩瀬家、互いの「もしも」に備えて預かっている鍵を差し込む。
ガチャガチャと鍵穴を回し、俺は挨拶もそこそこにドアを蹴開けるようにして踏み込んだ。
「……おい!香穂!生きてんのか!!」
シンクには、食べ終えた粥の器が片付けられていた。
昼までは香穂の母親も付いていたようだ。
だが今その親がいないところを見ると、香穂の両親そして香穂本人も、寝てれば治るいつものやつと高をくくっているのだろう。
寝室のドアを開けると、カーテンを閉め切った暗がりの中に、シーツを跳ね除けて苦しそうに呼吸する香穂がいた。
今朝よりさらに赤みの増した頬。
冷却シートは熱でふやけ、あさっての方向にズレている。
「……あれ?せんく?おかえり?」
「そのまま寝てろ。テメーは今、オーバーヒート中だ」
俺はランドセルを床に放り投げる。
冷却シートをすぐ横に置かれていた新しいものに貼り替えた。
指先に触れる香穂の額は、まるで沸騰したフラスコのように熱い。
「……あちち、だよ……せんくー」
「あー、知ってる知ってる。今すぐ冷却してやっからな」
俺は台所から氷を調達し、タオルで包んだ自作の氷嚢を、香穂の首筋と脇の下に滑り込ませた。
「っ!せんくー!つめたいっ」
「今は余計な体力使うな。水分取って寝ろ」
「うん」
「氷、冷てえけど我慢しろよ」
俺はベッドサイドの床に陣取り、香穂の熱い手を、自分の小さな手で包み込んだ。
香穂の指先が、微かに震えながら俺の手を握り返してくる。
「……せんくーがいれば、だいじょうぶ?」
「正解だ。100億万点やる。明日には平熱だな」
俺はもう片方の手で、香穂の乱れた前髪を何度も、何度も撫で続けた。
夕闇が迫る部屋の中で、俺は自分の宿題も、明日の準備もすべて放り出し、ただ香穂を見守り続けた。
*
「あら、鍵が開いてると思ったら千空くんだったのね!様子見に来てくれたの?ありがとう」
夕方、香穂の母親がいつもより気持ち早めに帰宅した。
彼女はリビングにランドセルが転がっているのを見て、のんびりした足取りで寝室を覗き込むと、その場で絶句した。
「……声がデけぇ。今、ようやく寝たとこだ」
俺はベッドサイドの椅子に腰掛け、膝の上に広げたノートに目を落としたまま、振り返りもせずに言い放った。
「15時42分、体温39.1度。水分は取らせた。今は38.7度まで下がってる」
「えっ……ええ!?」
「いいか、今度から香穂が具合悪くなったらすぐ俺を呼べ」
「は、はい……よろしくお願いします?」
香穂の母親の困惑をよそに、俺は再びノートへ視線を戻した。
*
香穂の両親が寝静まった深夜。
俺は香穂の寝顔を至近距離で観測していた。
「……せん、く……?」
「……ああ、ここにいる。熱引いてきたぞ」
俺はあいつの首筋にそっと触れ、指先に伝わる熱の引き具合を確認する。
まだ少し高いが、もうピークは脱したようだ。やっと、肩の力が抜けた気がした。
*
「……ん?」
窓の外からスズメの鳴き声が聞こえる。
俺は椅子に座ったまま、ベッドの端に突っ伏して寝ていたらしい。
「……熱、下がったか?」
俺は眠い目を擦りながら、首筋に手を伸ばそうとするが、直前でその手は止まる。
「せんくー、おはよー!」
ベッドの中から、昨日までの泥のような重苦しさが嘘みたいに消え失せ、弾けるような声が飛んできた。
香穂はシーツを蹴り飛ばして起き上がり、頬の赤みも引いて、いつもの笑顔を全開にしている。
「……おい、病み上がりが急に動くなよ」
「せんくー!見て見て!もうお熱ない!すごい!!」
香穂は俺の手を掴むと、自分の額にペタッと押し当てた。
俺の指先に伝わってきたのは、昨日までの沸騰したような熱さではなく、柔らかくて、少しひんやりとして心地いい平熱だ。
「いつもだとね、2回夜寝てもお熱さがらなくて、今日もまだお熱あるから休もうねっておかーさんにいわれるのに!」
香穂は目を丸くして、自分の体をペタペタ触りながら不思議そうに首を傾げた。
「……ハッ、当たり前だろ。昨日、俺がどれだけ看病したと思ってんだ」
俺は真っ赤な目のまま、椅子から立ち上がって最高に不遜なドヤ顔を決めてやった。
「うん!せんくー、魔法使いみたいだね!」
香穂は嬉しそうに笑って、俺にしがみついてくる。
魔法じゃねぇ、科学だ。そう訂正しようとしてやめる。
俺は、しがみついている香穂の頭を、昨日から数千回繰り返した手つきで、もう一度だけ乱暴に撫でた。