いつもの睡眠導入ルーティン
カチャリ、と小さな音を立てて箸を置く。
目の前では、香穂が最後の一口を咀嚼しながら、心底幸せそうに目を細めていた。
「……今日のご飯も、100億万点だった!」
「ククク、そうかい。そいつはなによりだ」
リビングのソファに移動し、プロジェクターで流しっぱなしにしているニュースを眺める。香穂の体が、じわじわと俺の方へ傾いてきた。
重心の移動速度、瞬きの回数、そしてわずかに深くなる呼吸。
……よし、来たな。
「……千空、なんか、ふわふわする……」
「だろうな。血流が消化器に集まって、脳の覚醒レベルが下がってる。生物学的に正しい反応だ」
そう言いながら、俺は彼女の肩を支えて立ち上がらせる。
ここでソファに沈み込ませてしまうと、後でベッドまで運ぶのが一苦労だ。
……いや、正確には一苦労どころか、俺の非力な筋力では物理的に完遂不能。毛布をかけて床で添い寝する羽目になる。
それも悪かねぇが、今日はちゃんと熟睡させてやりたい。
「ほら、自力で歩け。シャトル打ち上げの最終工程だ」
「ん……ねる時間……?」
半分夢の中に足を突っ込んでいる香穂を誘導し、寝室のベッドへ横たわらせる。
シーツに沈んだ瞬間、彼女の顔から緊張が完全に消え去った。
「……千空、今日なにしてた……」
「あァ……今日のラボは、新型バッテリーの充放電サイクルが理論値を超えてな……」
俺はベッドサイドの椅子に腰を下ろし、とりとめのない報告を始める。
香穂にとっては子守唄の代わりだ。内容は理解しなくていい。俺の声が、彼女を安眠へと導く鍵なんだからな。
「……千空が楽しそうだと……私も、嬉しい……」
力なく笑う香穂の、耳の後ろからこめかみにかけて、指先でゆっくりとなぞる。
柔らかい髪が指に絡み、吸い付くような肌の温度が伝わってくる。
7歳の頃から、この感触だけは変わらねぇ。
3700年の空白を経て、ようやく取り戻した当たり前の儀式だ。
「……ん……」
呼吸が一定のリズムに固定された。
指先を滑らせ、頬を、そして唇の端を優しく撫でる。
……よし、落ちたな。
完全な無防備。
ストーンワールドで、コハクに担がれてきたこいつが15時間も眠りこけていた時の、あの心臓が抉れるような安堵感を思い出す。
「……ククク、いい寝顔だ」
満足げに独り言ち、俺はポケットからスマホを取り出した。
無音カメラを起動し、シャッターを切る。
保存先は、暗号化された極秘フォルダだ。 そこには今日まで撮り溜めた香穂の寝顔が格納されている。
「おやすみ、香穂。明日もまた、100億%健やかに目覚めろよ」
最後に一度だけその額を指で弾き、俺は音を立てずに寝室を出た。
さて、書斎のデスクには、まだ書きかけの論文が山積みだ。
香穂の安らかな寝息をスピーカー越しに聞きながら、俺は再び、科学の深淵へと潜っていった。