科学の火花
夢を見た。
それも、ひどく懐かしい記憶の断片だ。
引っ越し作業の喧騒が響くマンションのエントランス。積み上げられた段ボールの山を、私はベンチに座ってぼんやりと眺めていた。
あの頃の私は、薬に頼らなければ眠ることもままならず、少しの物音で飛び起きてしまう子供だった。慢性的な寝不足のせいか、その頃の記憶は霧の中のようにぼやけている。
そんな私の視界に、妙にキラキラした少年が飛び込んできた。
「このリフトの機構、ダンパーか? 油圧か、それとも電動駆動か?すげぇな!なるほど唆るじゃねえか!」
引っ越し業者に果敢に絡んでいるのが、後の隣人、石神千空だった。
父親の百夜さんが「こら千空、邪魔になる!」と苦笑いしながら私の父親と挨拶を交わしている。
大人たちの社交辞令が遠くで聞こえる中、千空は面倒くさそうに吐息をついた。
「まー、いいわ。どうせあとは『若い者同士で遊んでこい』だろ?行くぞ、香穂」
唐突に差し出された千空の手。その、自分よりも体温が低く、少しだけカサついた掌の感触を、私は今でも指先でなぞることができる。
千空の部屋は、足の踏み場もないほどに本が積み上げられ、その隙間にバラされた電化製品の残骸と、使い込まれたドライバーやペンチといった工具が散らばっていた。
「なあ、この図鑑は読んだか?こっちは?これは百夜にもらったヤツだが、ククク、最高に面白れぇぞ。読むか?」
千空は目を輝かせながら、図鑑のタワーの横に、解体中のラジオの基板を置き、まるで宝物のように次々と広げていく。
彼が語る科学用語の数々は、当時の私にはちんぷんかんぷんだった。けれど、その時の千空の周りには、機械の配線が弾けるような、小さな火花がパチパチと飛んでいるように見えた。
(せんくーくん、きれいだなぁ)
弾ける火花も、熱を帯びた赤い瞳も、彼が広げた宝石図鑑のページよりもずっと綺麗で、目が離せなかった。
千空の溢れる言葉の波に揺られているうち、重たい瞼が勝手に下がってくる。
「……眠いのか?」
不意に顔を覗き込まれ、小さく頷くと、千空はクローゼットから毛布を引っ張り出し、無造作に私に掛けた。
工具が転がる床の上で、千空は少しだけ居心地が悪そうに、でもどこか誇らしげにしていた。
「引っ越しで疲れてんだろ。寝とけ」
知らない家、知らない匂い。
機械油と本の紙の混ざった独特の香りは、普段の私なら神経を昂らせるはずの刺激だったのに、この場所だけは不思議と心臓の音が落ち着いていく。
(このにおい、せんくーくんの声、すごく、安心する……)
私はそのまま、抵抗もできずに深い眠りへと落ちる。
引っ越し作業が終わり、父が迎えに来てもなお、私は起きなかった。
「わりぃ、寝ちまった」
「え……? 香穂が、ここで?」
父の驚く声が遠くで聞こえる。
「あぁ。オレが話してたら勝手に船漕ぎ出したから、毛布掛けたら爆睡だ。……何回か揺すったけど、全然起きねぇ。すんげー寝てんぞ、こいつ」
後で聞いた話によれば、眠り続ける私を見て、両親は泣いて喜んでいたという。
あの日から私にとって千空は、世界で唯一の、そして最強の精神安定剤になったのだ。
*
「……なんかすっごい懐かしい夢を見た気がする」
ふと目を覚ますと、すぐ近くで千空が何かを計算していた。私が呟くと、彼はペンを止めてこちらを向く。
「夢?脳が記憶を整理する過程で見るっつー説もあるが……」
さっそく始まった千空の科学講釈をぼんやりと聞きながら、心地よい気怠さに身を任せる。
「……うんうん」
「おい、聞いてねぇな、テメー」
「聞いてるよ。千空の声は、昔からずっと、子守唄代わりだもん」
そう言って笑うと、千空は少しだけバツが悪そうに鼻を鳴らし、再び手元の資料に視線を戻した。