焦点は、君の涙に
「あー……飲みすぎた……。まだ頭が痛い気がする……」
ソファで毛布にくるまり、干物のように丸まっていた私に、千空が容赦ない声をかける。
「いつまで寝てやがる。さっさとシャワー浴びて支度しろ」
千空はそう言って、毛布を引き剥がす。
「外の空気を吸いに行くぞ」
そう短く告げた彼の表情は、どこか悪戯を企む子供のように楽しげだった。
午後の柔らかな日差しがオレンジ色に染まり始めた頃。
てっきり夕飯でも食べに行くのかと思いきや、到着したのは街外れに新設されたばかりの、ピカピカに輝く科学館。
石化前、子供の頃に二人で何度も通ったあの埃っぽくて古めいた場所とは大違いの、ガラス張りのモダンな建物だ。
「……ねえ千空、そっち裏口だけど。っていうか、看板に『日曜休館』って書いてあるよ?」
足を止める私に、千空はポケットからジャラリと鍵の束を取り出し、事もなげに言った。
「あァ?……正面から入りたかったか?マスターキーは俺が持ってるから、正面から入りたきゃそっちを開けるぞ」
「え?いや、そうじゃなくて……裏口開けるの!?ていうか、なんで千空がマスターキー持ってるのよ」
「なんでって、そりゃ……俺が建てたからな」
私の驚き顔を見て、千空はクククと笑いながら鍵穴に鍵を差し込む。
「市営じゃ予算不足で、昔俺たちが通ってた科学館みたいにすぐオンボロになるぞ。……こういうことに私財投じてなんぼだろ。税金対策ってやつだ」
「…私財…税金対策……」
「まあ、半分は冗談だがな。いつか第二の『千空少年』か、科学大好き『千空くんの助手少女』が現れるかもわからねえしな。……さっさと入れ、貸切だぞ」
その科学館の名前は、拍子抜けするほど普通な『こども科学館』。
休館日の館内は静まり返っていて、二人の足音だけがコツコツと響く。
一階の【古代】エリアの化石や鉱物、二階の【21世紀の記憶】、そして【ストーンワールド】から【未来】へと続く展示。
昔、二人でワクワクしながら眺めていた旧世界の科学館の魂が、確かにここに息づいていた。
一通り見回した後、千空がポケットから、少し折り目のついた手書きのメモを差し出した。数式と幾何学模様が組み合わさった、彼らしい暗号だ。
「せっかくの貸切だ。ただ歩いて回るんじゃ、100億%能がねぇ。……ほら、館内に宝探しを仕込んだからテメーの足で見つけ出してみろ」
「えっ、宝探し!?なんだろお宝!」
「ハッ、さあな。辿り着きゃわかる。……ほら、モタモタすんな。後ろでサポートしてやる」
メモを握りしめ歩き出すと、千空も一歩後をついてきた。
「……えーっと、最初の暗号は……『白亜紀の王が見つめる、文明の最初の一滴』。これって、あのティラノサウルスの骨格標本のことだよね?」
一階のエリアで立ち止まり、首を傾げると、背後から千空の涼しい声が届く。
「その王様が、何を羨ましそうに見てるか考えろ。……石の時代を終わらせたのは、いつだって『知恵』と『火』の科学だろ」
「あ!標本の視線の先……あの、原始の火おこし器の展示だ!」
駆け寄ると、展示台の隅に次の暗号が隠されていた。
その後も、【21世紀】エリアで「真空に浮かぶ青い奇跡」を探し、【未来】エリアでは「時を越える歯車」を解いていく。
私が迷うたびに、千空はヒントのようなそうでないような答えをくれるけど、その瞳は暗号を解いて喜ぶ私を楽しんでいるようだった。
そして、ついに最後の暗号を解き明かし、私たちはメインホールの真っ暗な真ん中に辿り着いた。
「最後はここ……でも、千空、ここには何も……」
「……そこが『焦点』だ。足元の印のところに立って、上を見てろ」
私がホールの中心に立つと、千空が指先でパチン、と乾いた音を鳴らした。
その瞬間。真っ暗だった高い天井から、数万個の光の雫が、ゆっくりと雪のように降り注いできた。
「……っ、わあぁ……!!」
それは映像ではなかった。
高い天井から無数の光が降り注ぎ、雪のようにゆっくりと私の周りを舞っている。
「綺麗……光が、生きてるみたい」
「光源と空気の流れを制御してる。詳しい説明が聞きてえなら3時間コースだぞ」
「……今はいい」
「だろうな」
千空がゆっくりと歩み寄り、光のカーテンを割って私の前に立つ。
「ククク、どうやら宝探しは成功みてえだな」
「え?まだ宝見つけてないよ?」
「あァ?俺はもう見つけたぞ」
舞い落ちる光の粒が、二人の横顔を交互に照らし出した。
「……千空、この光、最高のプレゼントだよ。ありがとう」
声が震えた。視界が急速に歪んでいく。嬉しいのに、胸の奥がギュッと締め付けられて、涙が溢れて止まらない。
私は涙でぐしゃぐしゃになった目をこすりながら、千空の顔を焼き付けたくて一生懸命に目を見開いた。
「……あははっ、私、泣きすぎ」
鼻をすすりながら笑う私を見て、千空は呆れたように肩をすくめた。
「……バカか、テメーは」
千空がゆっくりと距離を詰めてくる。
光の雫が私たちの頬をかすめると、彼は私の涙を指先で優しく拭った。
「……んな顔すんな。最高の宝を見つけたのに、泣き顔じゃ台無しだろ」
「宝を見つけたの、私じゃなくて千空でしょ?」
「あー、そうかもな」
千空の指先が私の顎をそっと持ち上げ、そのまま優しく私の唇を塞いだ。
「……綺麗だったね、千空」
夢のような光のカーテンがゆっくりと消えていき、科学館のメインホールが再び夜の静寂に包まれる。
私は胸の奥が温かくなるのを感じながら、隣に立つ千空を見上げた。
「ああ。まあ、光の波長と屈折率のシミュレーションとしては、誤差5%以内ってところだな」
千空は手元のタブレットで何かの数値をチェックしながら、涼しい顔でそう言った。
「……そんなこと言うために連れてきたの?」
私は少しだけ頬を膨らませて彼を突いた。せっかくいい雰囲気だったのに、この人はいつだって科学の物差しを持ち出してくる。
千空はタブレットを操作する指を止めたが、こちらを見ようとはしない。
「……バカ言え。ぶっつけ本番だったからな。照明の配置と空間の広さのバランスがズレてたら、光が干渉してただの『眩しいだけの無駄な装置』になりかねなかったんだ。……成功しなかった時どうするかまで考えてなかったわ」
「え……?」
私は目を丸くした。
「じゃあ、いつ連れてくるかも、誰と来るかも……というか、そもそも本当に成功するかも決めないで、とりあえず仕込みだけはやってたってこと?」
千空はふんと鼻を鳴らして、わざとらしく私からそっぽを向いた。
闇の中、かすかに彼の耳の付け根が赤く染まっているのが見える。
それが、答え。
「……っ!ほんと、わたしたち締まらないね!」
私はおかしくて、嬉しくて、クスクスと笑った。
「ねえねえ、千空!この科学館の鍵私にも作って?さっきの光のやつ、いつでも見れるようにしてよ!!」
私がそう言って千空の袖を引くと、彼は即座に、迷いなく首を横に振った。
「ダメだ」
「えーっ!なんで!ケチ!自分の建てた科学館でしょ?」
私が食い下がると、千空は呆れを通り越して、心底ゾッとするような顔で私を見た。
「……アホか。テメーに鍵なんて渡したら、翌朝には『あ、千空ごめん!なんかよくわかんないけど全部引っこ抜いた!』とか『触ってないのに勝手に壊れた!』とか言って、俺の数ヶ月分の努力を無残な鉄屑に変えるに決まってるだろ」
「ど、どうしてそんな決めつけるの!……いや、まあ、もし鍵をもらっても絶対大事にするし!」
「テメーの『とりあえず触ってみる』行動が、どんだけ致命傷負わすか考えてみろ」
千空は鼻で笑うと、鍵の束をポケットの奥深くにしまい込んだ。
「展示物がただの輝くゴミに成り下がる未来が、100億%の確率で見えてんだよ。……テメーの『ごめん、テヘッ』の一言で展示物が無に帰すリスクを容認できねぇ」
「失礼だなぁ!私だって気をつけるってば!」
「気をつけるとか言いながら、さっきも館内の柱に足先ぶつけてただろ。……テメーは物理法則すら無視して壊す才能があるんだよ」
千空はそう言って、私からサッと距離を取ると、あえて私の方を見ずに歩き出した。
「……鍵は渡さねぇ。見たきゃその都度俺を呼び出せ」
「……うわぁ、一緒に来たいならそう言えばいいのに」
「そうとは言ってねえだろ」
「言ってた」
「言ってねえ」
赤い耳を必死に隠しながら、千空は私を置いてスタスタと出口へ向かった。
*
夜風が少し冷たくなってきた帰り道。街灯のオレンジ色の光が、二人の影を長く地面に伸ばしている。
千空は相変わらず少し前を歩いているけれど、私が少し歩調を緩めると、それに合わせて彼も緩める。そんな絶妙な距離感で、二人はポツポツと言葉を交わしていた。
「……なぁ、香穂」
「ん?」
「さっきの光のシミュレーション、テメーが泣くほど喜ぶとは思わなかったわ。……あんなもん、物理学的には単なる『光の散乱』だぞ」
「違うよ。……あれは、千空が私を喜ばせるために考えた科学のプレゼントでしょ」
私がそう言うと、千空は立ち止まる。
街灯の下で、彼が少しだけ視線を逸らした。
「……効率悪ぃわ。テメー喜ばすために、時間とラボの予算を割いて、消える光作って……普通に宝石でも贈ったほうが100億%安上がりで、手元に残って効率的だったな」
「えー、千空が宝石!?逆に怖いよ!……それにね、宝石なんて結婚した時にくれた1個で十分。宝石なんかより、千空が私のためだけに頭を悩ませてくれた時間が、何よりも贅沢なんだから」
「……安上がりなヤツ」
「おかげさまで」
千空は私の手を引き寄せて、自分のコートのポケットの中に私の手をそっと滑り込ませた。彼の大きな手の中に、私の冷え切った指先が包み込まれる。
「……あったかい」
思わず口から漏れた言葉に、千空は当たり前だろ、とぶっきらぼうに返して、私の手を少し強めに握った。