石神くん、ではない
「――すぐ行く。ソッコーで行く。以上、これが俺の『誓いの言葉』だ」
高校の入学式。
用意されたカンペを無造作に放り出し、講堂の演説台から「宇宙に行く」とぶち上げた新入生総代――石神千空は、呆気にとられる全校生徒を置き去りにして悠然と壇上を降りた。
どよめきすら起こらない。
あまりにも浮世離れしたその宣言に、新入生たちの認識がようやく現実に追いついたのは、彼が完全に姿を消してからのことだった。
「ねぇ、岩瀬さん。あの石神くんと同じ中学なんだよね?」
「入試の理科で150点取ったって本当!?」
「石神くんっていつもあんな感じなの!?マジの天才?」
「あのネギみたいなダイコンみたいな頭、天然!?」
「あはは……。うん、せん……、石神くんは、中学の頃からずっとあのままだよ」
入学式から数日経っても千空の話題は鳴り止まず。
新しく出来た友人たちの質問攻めに、香穂は引きつった笑いを浮かべながら、なんとか当たり障りなく返していく。
高校という新しいステージ。
香穂なりに「異常だと思われない適度な距離」を保とうと、慣れない敬称を使って彼を呼んだ。
それが普通というラベルを貼るための最短ルートだと思っていた。
その日の放課後。
陽が傾き始めた廊下で、理科室へ向かおうとしていた千空の背中を見つけ、香穂は無意識に声をかけた。
「あ、……せん……石神くん」
ピタリと、千空の足が止まった。
静まり返った廊下に、彼の上履きが床を擦る音が低く響く。
ゆっくりと振り返ったその赤い瞳は、冷え切った試験管のように無機質で、けれど射抜かれた場所が熱を持つほどに鋭く香穂を捉えた。
「……あァ? 誰のこと言ってんだ、テメー」
「えっ……あ、いや、千空のこと、だけど……」
「だったら最初からそう呼べ。調子狂うわ」
千空は耳をほじりながら、隠そうともしない不快感を露わにして鼻を鳴らした。
香穂はたじろぎながらも、今日一日、自分の脳内で繰り返していた正論を口にする。
「だって……高校生だし。周りのみんなも『石神くん』って呼んでるから。呼び捨てなのも変かなって……」
「ハッ、周りと同じ必要があるかよ」
千空は香穂の目の前まで歩み寄ると、逃げ場を塞ぐように彼女を見下ろした。
近すぎる距離で目が合って、香穂は思わず息を止めた。
「え……?」
「テメーが『石神くん』とか言ってんの、気持ちわりぃわ」
「気持ち悪い、って……でも、私たち別に付き合ってるわけじゃないでしょ?……ただの幼馴染だし」
「ラベルなんか必要ねぇだろ」
千空は香穂の言葉を遮るように、少し屈んで彼女の顔を覗き込む。
近い。赤い瞳しか見えない。
「俺がいねえと寝れねえくせに」
「……っ」
「それ以上に、何が必要だよ」
「……それ、ずるい」
千空は満足げにニヤリと笑うと、香穂の髪をいつものように、ぐしゃりと撫でる。
「ほら、帰るぞ。今日は大樹連れて新型バッテリーのテストだ」
「……結局、実験の付き添いじゃん」
「ハッ、それが俺らの『最適解』だろ」
友人たちの喧騒で逆立っていた香穂の神経が静かに凪いでいった。
「…うーん、バッテリーかあ、爆発フラグだね?」
「誰が、爆発させる、原因なのか、わかってんのか?」
「大樹?」
「ちげえわ、テメーだわ。……触んなよ」
「えー、濡れ衣すぎない?」
「びしゃびしゃ布レベルでも、ほぼ確だからな」
「ひどい!!」
結局その日も、香穂は「石神くん」ではなく「千空」と呼びながら隣を歩いていた。
2026/04/10
2026/04/10