理科室
昼下がりの理科室。
弁当を食べ終えた千空と香穂が、昼休みをのんびりと過ごしていた。
「……千空、眠くなってきた」
香穂が黒い天板に頬をぺたっと預ける。
ひんやりとした感触が心地よいのか、香穂はそのまま、とろんとした瞳で千空を見上げた。
「テメーは寝れる時に寝とけ」
千空は手元の科学雑誌から目を離さず、短く応じる。
「……起こしてくれる?」
「予鈴まであと15分だ。昼寝にはちょうどいい時間だな」
「……うん……」
香穂は机に顔を預けたまま、じっと千空を見つめ続けていた。
瞬きがゆっくりになり、長い睫毛が細かく震える。
「……千空」
「あ?」
「……あたま、なでて」
ほんの少しの沈黙。
千空は読みかけのページを指で押さえ、ゆっくりと視線を彼女に向ける。
無造作に雑誌を机に置くと、香穂の柔らかな髪の間に滑り込ませた。
「……」
手櫛で梳かすように、頭のてっぺんから後頭部にかけて。
ゆっくりと、一定のリズムでストロークを繰り返す。
「……やば、これは寝る」
香穂は幸せそうに目を細め、一度、二度と深い瞬きを繰り返した。
千空の指先が髪を抜けるたびに、呼吸は深くなり、肩の力が抜けていく。
やがて、その瞼は重力に逆らうことをやめ、静かに閉じられた。
「……」
ほどなくして、すうすうと一定になった寝息。
少しだけ開いた唇、机の冷たさに赤くなった頬。
千空は指を離そうとして……少しだけ躊躇い、そのまま香穂の髪に指を預け続ける。
予鈴が鳴るまでのわずかな時間。
香穂の体温を刻み込むように、何度も、何度も、髪を梳き続けた。
2026/04/10
理科室前
理科室前の廊下を、一人の女子生徒が鼻歌まじりに歩いていた。 昼休み、たまたま理科室の前を通りかかった彼女だったが、その足は入り口の少し開いた扉の前でピタリと止まる。 (……あ、石神くんと岩瀬さんだ) 学年でも有名な距離感バグりまくりの幼なじみの二人。 付き合ってないと言い張りながら常にニコイチな彼らを、彼女密かに推しカップルとして崇拝していた。 興味本位で、彼女は音を立てないようにそっと中を覗き込む。 「……っ!!!!」 声にならない悲鳴が、女子生徒の喉を駆け抜けた。 彼女は咄嗟に自分の口を両手で塞ぎ、崩れ落ちそうになる膝を必死で踏ん張る。 視線の先。 男子はみな学ラン制服のなか、ひとりだけ常に白衣を纏い、入学式では宇宙へ行くと宣言した異質の同級生、石神千空が。 机に突っ伏してスヤスヤと眠る岩瀬の頭を、信じられないほど優しい手つきで、ゆっくり、ゆっくりと撫でていたのだ。 (……待って、無理!!) 彼女の脳内モニターに、特大の【尊い】という文字が点滅する。 しかも、撫でる手がまったく止まらない。 岩瀬の髪に指を差し込み、愛おしそうに手櫛で梳かし続けるその仕草は、どこをどう見ても恋人関係でしかない。 (……付き合ってないとか、どの口が言ってんの!?あんな俺の宝物みたいな顔して撫でてるクセに!!) 女子生徒は理科室の壁に背を預け、ずるずるとその場にしゃがみ込んだ。 今にも走り出しそうな衝動を鎮めるため、彼女は胸の前で両手を合わせ、深呼吸を数回行う。 天を仰ぎ、そして静かに拝み始めた。 (……ありがとう、世界。ありがとう、理科室。私は今、歴史的な奇跡を目撃してしまった……) 身悶えしながら、彼女は心の中で【尊い】という文字を100億回書きなぐっていく。 「……一生推せる」 予鈴が鳴る直前、二人の邪魔しないよう、音もなく爆速でその場を立ち去る。それが推しに対する最大の敬意であるように。 その日の彼女の午後の授業の集中力は、尊さのあまり消失していたことは言うまでもない。 * しばらくして、香穂の寝息はすっかり穏やかなものになっていた。 理科室の窓の外からは、グラウンドの声や、廊下を走る足音がぼんやり聞こえてくる。 その中で、千空だけは変わらないリズムで、香穂の髪をゆっくり梳き続けていた。 「……」 時々雑誌のページをめくりながら、片手間みたいな顔をしているくせに、撫でる手だけは止まらない。 完全に寝入った香穂の頬が、机に押されて少しむにっと潰れている。 千空はそれを見て、小さく鼻で笑った。 (……あと2分) 時計を確認し、ようやく髪から手を離す。 「香穂起きろ、予鈴鳴るぞ」 千空は手の甲で、香穂の頬をぺちぺちと軽く叩いた。 「んあ…」 「あと、ヨダレ垂れてんぞ」 その声に慌てて飛び起きる。 「んん!?えっ?よだれ、えっ??」 「拭けよ」 「やば、ほんとだ……ちべたい」 「そっち次の授業なんだ?」 「んー、数学かな?千空は?」 「俺は理科室」 「ずるっ!!え、教科書は?」 「必要ねえだろ」 「あー、そーでした!科学のぉ?申し子ぉ?」 「あ?なんだって?」 「なんでもないっす」 キンコーンと予鈴が鳴り、香穂が慌てて空になった弁当を掴み立ち上がる。 「あ、鳴った。教室戻るね、じゃ!また放課後!」 「へいへい」 千空はひらりと片手を上げ、香穂を見送った。2026/04/10