ハンドクリーム?
千空がリビングへ入ってきた瞬間だった。
「ほら」
ラボから帰ってきた千空が、歩きながら何かをこちらへ放り投げてきた。
「わっ」
慌てて両手で受け止めると、小さなチューブが手の中におさまった。
「……ハンドクリーム?」
ラベルを見ると、妙に見覚えのある似顔絵のイラストが描かれている。
「なんかゼノさんみたいな絵入ってる……」
「ゼノ製だからな」
「ゼノさん製のハンドクリームがなんでここに?」
千空は興味なさげに、手を洗いながら答えた。
「塗ると離れられないハンドクリームだとよ」
「……なんて??」
「塗ると、離れられない、ハンドクリーム」
「……NASAの叡智が作るネタグッズってこと?」
千空が鼻で笑う。
「あのおっさん、真顔でぶっ込んでくるからな。ネタか本気かは知らねえ」
急に手の中のチューブが得体の知れないものに見えてきて、私は危険物でも扱うみたいに、指先でそっとつまみ上げた。
「なんでまた……」
「夫婦として一歩踏み出すためだそうだ」
「は?どこからツッコめばいいかわかんない。夫婦なのに一歩?なに?なんでハンドクリーム?」
「まあ中身は、ゼノ特製の温度応答性ハイドロゲルってとこだろうな」
混乱する私の横で、千空は白衣を脱ぎながらさらっと言う。
「いや成分の話じゃなくて……」
「ゼノのことだ。皮膚や人体への影響は問題ねえようには作ってんだろ」
「……影響ないんだ」
その瞬間、私の警戒心が少しだけ薄れた。
『人体へ影響なし』
そのワードに安心してしまい、興味本位でキャップを捻ると、ふわりと、甘すぎない少し落ち着いた香りが広がる。
「えっ、めっちゃいいにおいする……」
「42℃以上で結合解離するから、熱めの――」
「……千空、千空千空ッ!!!」
「あ?」
慌てて千空を呼び、私はぶんぶん手を振りながら顔を上げる。
「やばい、くっついた」
「……」
「いいにおいだな〜と思って少し付けてみようとしたらいっぱい出ちゃって!のばしたらそのまま付いちゃった!!!やばい!!!」
自分の両手が、綺麗に恋人繋ぎ状態で固定されてしまった。しかも、まったくもってびくともしない。
「テンプレ通りすぎて、ため息しか出ねえなテメーはよ」
「えええ、これ剥がせるの!? 私、ずっとひとり恋人繋ぎのまま!?」
「……もう、そのままでいいんじゃねえか」
「えっ!?だめだよ!ごはん食べられないじゃん!あ、そうか、千空あーんしてくれる?」
「アホか。やるわけねえだろ」
「うっっそ!?ちょっと!私、ごはんどうするの!?」
千空が心底どうでもよさそうに、背を向けた。
「さっき外す方法は言ったぞ」
「えっっ!?まったく聞いてなかった!なに!?もっかい言って!」
「言わねえ」
「いや!ちょっと、千空!」
千空は肩越しに振り返る。
「……ハッ、自力で思い出せ」
千空は鼻で笑い、そのまま風呂へ向かって歩いていく。私は慌ててその背中を追いかけた。
「ちょっと!こうなるって分かってて持ってきたでしょ!?」
「さあな」
否定しない。
しかもたぶん、剥がす方法なんてまともに教えてくれる気なんてなかったんだ。
私が勝手に引っかかって、慌てて追いかけてくるところまで込みで、絶対わかっててあのハンドクリーム持って帰ってきたんだ。
廊下の向こうで、千空が楽しそうに笑っていた。
絶対、面白がってる!!
2026/05/25
2026/05/25