もうでれない
わたしがトイレにとじこめられて、いったいどのくらいのじかんがたったのだろう…
便座に腰を下ろし、肘をついて拳に顎を乗せる──まさに「考える人」のポーズで、わたしは目の前の無機質なドアノブを凝視していた。
原因は、単純明快な物理的エラー。鍵が内部で故障し、完全に閉じ込められたのだ。
手元にスマホはない。
そして、この家を設計した主である千空は、まだ帰宅していない。
最初は必死にガチャガチャとドアノブを回して抵抗してみたものの、虚しい金属音が響くばかり。
いっそ蹴破って脱出しようかとも考え、思い切りローキックを見舞ってみたが、ゴスッという鈍い音が返ってきただけで扉は1ミリも動じなかった。
(……まさかと思うけど、千空、トイレのドアにまでこだわり詰めてて、防弾仕様とか入れてないよね?)
詰まるのはトイレだけにしてほしい。いや、詰まっても困るのだけれど。
わたしは無駄な抵抗を早々に切り上げ、便座の上で【千空待ち】という唯一の解を選択したのだった。
もう何十分なのか、何時間なのか。
いや、もしかしたら数日経っているのかもしれない。
そんな馬鹿なことまで考え始めた頃──カチャリ、と玄関のオートロックが解錠される音が静寂を突き抜けた。
『あ?居ねえのか?』
廊下から響く、聞き慣れた低くカサついた声。
わたしは弾かれたように立ち上がり、ドアを叩いた。
「千空!!トイレ!!開かないの、助けてーーー!!」
『…………はァ?トイレだァ?』
ドタバタと近づいてくる足音。外側からドアノブを弄るガチャガチャという音が響く。
『……あー、ラッチボルトのバネがイカれてんな。経年劣化か摩耗か……工具持ってくるからそこで大人しくしてろ』
「千空!……待って、行かないで!喋ってて!!」
心細さからそう叫ぶと、廊下から『ハッ、ドライバー持ってくるだけだぞ?』と呆れたような、けれどどこか楽しげな鼻を鳴らす音が聞こえた。
千空はそのままドアの向こう側に背中を預けて座り込んだらしい。
「ねえ千空……石化前、小学生の頃にさ、わたしが絵本集めてたの覚えてる?」
『んな事もあったな。図書カードもらった時だけ買うっつー自分ルール縛りのやつだろ』
「そうそう!……集めてた本の中にさ、服が脱げなくなって、そのまま大人になるのかもって不安になるお話があったでしょ?」
『……文字より絵の面積の方が圧倒的に多いやつか。それがどうした』
「わたしも今、このまま一生トイレから出られなくなったらどうしよう、って考えてたの」
『いや出れるわ。俺が居る時点で脱出確率は100億%だろ。無駄な考察すぎるわ』
「もしこのままトイレに住むことになったら……千空、わたしに毎日ご飯とお菓子、差し入れてね。できればチョコが良いな……」
『トイレでボッチ飯食う学生かよ』
「ドア越しにしか喋れなくなるけど……千空も元気出してね」
『いや、なんで俺が凹む側なんだよ。そもそもテメーがここに定住したら、俺はもう一つトイレを増設しねぇと、自分の用が足せねぇだろうが』
「……あ、それもそうだね。千空の作る、自動で蓋が開いて自動で流れてLEDがギラギラに光るゲーミングトイレ……楽しみにしてるね……」
『ハッ、アホか。んな無駄なもん作るわけねえだろ』
カチャリ、と。
わたしのバカげた空想を遮るように、小気味よい金属音が鳴り響き、ゆっくりとドアが開く。
「ほら、ロック解除だ。出てこい」
そこには、いつの間に用意したのか片手にドライバーを持ったまま、呆れ果てた顔でこちらを見下ろす夫の姿があった。
「……あ、出れた……!!」
「出れるっつっただろ……っつーか、テメーも運のパラメータがマイナス突き抜けてんな。よりによって俺の不在時に壊れるかよ」
千空の手を借りて、ようやくリビングの広々とした空間へ帰還する。
わたしはえへへと笑いながら、救世主の腕にぎゅっとしがみついた。
「いいの。マイナスも、二乗すればプラスになるでしょ?」
わたしの屁理屈(?)に、千空は一瞬だけ虚を突かれたように目を丸くした。
けれど、すぐに肩を震わせて笑い出す。
「……ハッ、違いねぇな。テメーも俺も運パラはマイナス寄りだが、二乗すりゃプラスだ」
千空はわたしの頭を乱暴に撫で回すと、そのままわたしの肩を引き寄せ──ようとして、ピタリと動きを止めた。
「…………おい、香穂」
わたしの両手が、彼のシャツの袖をぎゅっと握りしめているのをじっと見つめる。
「ん?なに?」
再会の余韻に浸ろうとしていたわたしに、千空はこれ以上なく真剣で正当な理由を突きつけた。
「……感動の再会の前に、まずは手を洗え。そっちが先決だわ」
「えっ……あ……」
おもわず千空を掴む手をパッと離す。
「トイレに数時間も幽閉されてたんだぞ。トイレから出たら手を洗えってガキの頃から耳タコで言われてんだろ」
「もー!せっかくいい雰囲気だったのに!」
「ぎゃーぎゃー言ってねえで、さっさと洗面所へ行け」
千空はわたしの背中を押して、洗面所へと連行した。
「ふぇーい……」
せっかくの感動の再会だったのに。
それでも、わたしの口元は自然と緩んでいた。
2026/04/26
2026/04/26