安定剤の反転現象
「……あれ?千空、帰ってるの?」
夕暮れ時のマンション。
玄関を開けた香穂は、たたきに並べられた見慣れた靴に目を留めた。
いつもならこの時間はまだラボにいるはずの夫が、予告なしに在宅している。
そのイレギュラーに、胸が少しざわついた。
廊下を抜けて、静まり返った寝室のドアをそっと開ける。
「……千空?」
「……あァ。香穂か」
ベッドの上にはシーツにくるまったままの千空が、重たげに瞼を持ち上げた。
いつもの逆立つ髪も、今日はどこか力なく沈んでいる。
「えっ、どうしたの?調子悪い?」
「あー……100億%風邪だわ。この間っからクロムの野郎が鼻すすってやがったからな」
「あちゃー、上位変換で伝染っちゃったんだね」
香穂は苦笑しながらベッドサイドに膝をつくと、自分の手で千空の顔や首元をぺたぺたと触って体温を確かめた。
普段は、香穂のほうがわずかに体温が高い。
だが、熱に焼かれている今の千空にとっては、触れてくる彼女の手のひらは驚くほどひんやりとして気持ちがよかった。
「……うわっ、あちちだね、千空」
「……ハッ。だろうな…」
ひんやりとした感触に、千空はわずかに瞼を細めた。
「よーし!今から対石神千空完全解熱作戦発動!唆るぜえ!これは!」
自分で言ってツボに入った香穂が、片手で顔を覆いくすくすと笑う。
「……おい。人の熱で唆るんじゃねぇ」
千空の小さなツッコミを背に、香穂は弾かれたようにキッチンへと駆けていった。
香穂が向かったのは、パントリーの一角。
そこには、香穂が頻繁に起こすオーバーヒートに備えて、千空が看病セットを配置した場所だ。
冷却材、タオル、そして自作飲料の材料。香穂は千空の行動をなぞるように、迷いなく手に取る。
「千空、寝てるところごめん!いつも作ってくれる経口補水液のレシピ、どうだっけ?」
香穂が寝室に顔を覗かせると、千空は薄目を開けて掠れた声で答えた。
「……塩分と糖分の比率は、だいたい3対40で……」
「ごめん、それだとわかんない!比率じゃなくて、水1リットルの時の大さじとか小さじで言って?」
「……水1リットルなら、塩は小さじ半分。砂糖は大さじ4杯半…」
「ありがとドクターセンクー!」
ぱたぱたとキッチンへ戻る足音。
しばらくして、香穂はトレイに乗せた冷却セットと、出来立ての補水液を持って戻ってきた。
「ほら、身体起こして。少しずつ飲んで?」
千空は香穂の手を借りて上体を起こすと、差し出されたグラスを口に含んだ。
その瞬間、千空の眉がわずかに動いた。
「……飲みやすいな。テメー、何入れた」
「ん? レモンをちょっとだけ絞ったの。千空のレシピ通りだと、ちょっと味が、アレかなって。レモン味、美味しいでしょ?」
「……」
あのアレな補水液が、レモンで別物になってる。
「……ハッ。クエン酸による疲労回復効果と、ビタミンCの補給か……うめえな」
「そうでしょ? 美味しく飲まなきゃ、効率悪いもんね!」
千空は、香穂の確信犯な笑顔に苦笑しながら、爽やかな酸味が広がる液体を胃に流し込んだ。
香穂は手際よく千空の汗を拭い、首筋や脇の下に冷却材を滑り込ませていく。その一連の動作に、迷いは一切なかった。
「……あんま近くに居ると、テメーにまで伝染るぞ」
「千空、忘れちゃったの?」
「あァ?」
香穂はドヤ顔を浮かべると、千空の熱い額を再び手のひらで覆った。
「わたし、風邪はひかないの。オーバーヒートはするけどね!」
「……」
そういえば、7歳のあの日から3700年の時を超えた今日まで。
香穂が風邪で寝込んだ記録を、千空は1件も保持していなかった。
「……ハッ。そういや、テメーは脳のオーバーフロー専用機だったな……忘れてたわ、んな事」
「そうでしょ?だから大丈夫!」
香穂はひと通りの処置を終えると、最後にすっと千空の頭を撫でた。
「……手際いいな」
「千空がいつもしてくれてること、そのままやってるだけだよ。……小さい頃から、ずっと千空に看病されてきたでしょ?だから、覚えちゃった」
「……」
「実践する機会はないんだけどね」
そう言って照れくさそうに笑う香穂を、千空はじっと見上げた。
「……悪くねぇな」
香穂が千空の乱れた前髪をそっと整えると、耳の後ろをいつもの彼と同じリズムで優しく撫でる。
「安心して寝ていいよ……ずっと、そばに居るからね」
「……あァ。頼むわ……」
千空は掠れた声で短く応えると、レモンの残り香に包まれながら、ゆっくりと目を閉じた。
2026/04/09
2026/04/09