扉の向こうの迷子
「……チッ。勝手にしろ」
些細な、本当に些細な言い合いだった。
いつもなら千空の理路整然とした正論に、「はいはい」と苦笑いで応える香穂が、今日に限っては一歩も引かずに立ち向かってきた。
加熱した口論の末、香穂は「頭冷やしてくる!」と、千空の制止を聞かずに玄関を飛び出した。
「……ハッ。1時間もすりゃ、冷却完了して戻ってくるだろ」
千空は独りごちると、昂ぶった脳を鎮めるために書斎へと閉じこもった。
だが。
2時間が経過し、リビングに戻っても、部屋は静まり返ったままだった。
「…………遅ぇな」
想定外の家出の長さに、千空の眉間にわずかな焦燥が走る。
千空は手元の端末を操作し、香穂のスマートフォンのGPS情報を立ち上げた。だが、画面に表示された現在座標は──自宅。
「エラーか?いや、そんなはずは……」
千空は弾かれたようにソファへ向かい、迷いなくクッションの隙間に手を突っ込んだ。
香穂が「スマホがない!」と家中を右往左往している時、その探索ログの終着点は、十中八九この場所だと決まっている。
千空がこれまで何度、ここから彼女の通信端末を救い出してきたか分からない。
指先に触れたのは、冷たい硝子の感触。
予想通り、見事に隙間に挟まったままの、香穂のスマートフォン。
追い打ちをかけるようにリビングの定位置には、ご丁寧に鍵と、千空がこのマンションに施した独自のセキュリティパスまでもが揃えて置いてあった。
(……何も持たずに家出したってのかよ、あのバカ……!)
鍵も、スマートフォンも、セキュリティパスも、今の彼女の手元には何一つないはずだ。
一度出たが最後、自力で戻ることは出来ない。
香穂を守るために築き上げたはずの鉄壁のシステムが、今は彼女を閉め出す最悪のバグとなって、千空の心臓を抉りに来る。
千空は生きた心地がせず、上着も持たずにリビングを飛び出した。
勢いよく、重厚な玄関のドアを蹴り開ける。
「……あ、」
ドアのすぐ隣。
共有廊下の冷たい壁に背を預け、膝を抱えて小さく丸まっている影があった。
「…………香穂」
千空の喉から、震えるような安堵の吐息が漏れる。
香穂は顔を上げると、口を「への字」に結んで千空を睨みつけた。
それは、幼い頃に彼女が泣き出すのを必死に堪える時に見せていた、癖そのものだった。
「いつから、そこに居たんだ」
「……ずっと」
「はぁ!?ずっとって……2時間もかよ。テメー、どこかカフェにでも──」
「……行けなかったんだもん」
香穂が掠れた声で、ポツリと独白を漏らす。
「エレベーター、開かなくて……よく考えたら、スマホもセキュパも鍵も、全部リビングに置いたままで……このマンションから出ちゃったら、もうエントランスにも入れないし、ここに戻ってくることもできないって思ったら……怖くて動けなくて、ずっと座ってた……」
自分の設計した、何重もの鉄壁のセキュリティシステム。
それが、怒りに任せて飛び出した彼女を足止めし、皮肉にも自分の手の届く範囲内に留まらせていた。
その計算外の功績に、千空は心底、救われたような心地がした。
「…………悪かった。俺も、言い過ぎた」
千空がその場に膝をつき、目線を合わせて静かに告げる。
香穂は鼻をすすり、赤くなった目で千空を見つめ返した。
「……ううん。……千空、迎えに行こうとしてくれたんでしょ?」
「……あァ、まあな。テメーの位置情報がリビングから動かねぇから、ぶっ壊れてんのか思ったわ」
「インターホン押せばよかったんだけど。なんか、千空なら探しに来てくれるんじゃないかって、ちょっと思っちゃったから……」
泣きながら、困ったように笑う香穂。
千空は何も言わず、香穂の身体を力強く抱きしめた。
「……あ、いたた……」
「どうした」
千空が慌てて身体を離そうとすると、香穂は眉をひそめて、自分のお尻のあたりをさすった。
「ずっと座ってたから、お尻痛い……割れてるかも……いてて……」
「……ハッ。尻は最初から割れてんぞ」
「もー!大丈夫?とか言うでしょ普通?」
千空は呆れたように笑うと、香穂の手を引いて立ち上がらせた。
「4つに割れたなら見てやるか」
「割れてません」
千空に手を引かれ、香穂はようやく家へと戻った。