飲み残しの行方
いつもより少し遅い朝だった。
簡単に済ませた朝食のあと、千空が空になった皿をまとめてシンクへ運んでいく。
その背中をぼんやり眺めながら、香穂はテーブルを拭いていた。
窓から入る柔らかい光。
まだ完全には目が覚めきっていない空気。休日らしい、ゆるい静けさが部屋に漂っている。
「……よし」
テーブルを拭き終え、香穂は残ったマグカップを回収しようと手を伸ばした。
その瞬間。
背後から、もうひとつ手が伸びてくる。
「残ってんぞ」
「……っ!」
すぐ耳元で落ちた声に、肩が跳ねた。
振り返るより先に、千空が香穂のすぐ横からマグカップを持ち上げる。
近い。近すぎる。
自分の顔のすぐ隣に、千空の首筋がある。
ごく、と喉仏が上下して、コーヒーが流れていくのが見えた。
(え?千空?)
(飲んじゃったの?)
(首キレイ)
(喉仏うごいた)
朝の光に照らされた首筋に、香穂は思わず視線を止める。
(なに、これ)
「……千空」
「あ?」
喉から目が離せないまま、香穂はぽつりと呟いた。
(むり)
(近い)
(えっ、すごいすき)
「……えっちすぎない?」
「は?」
心底意味がわからない、という顔で千空が眉を寄せる。
そのまま飲み終えたカップを持ちながら、手の甲で口元をぐいと拭った。
「ほら!!それも!!」
「だから何がだって」
「無自覚でやってるのが一番タチ悪いんだけど!?」
香穂は勢いのまま、ついっと指先で千空の喉をなぞった。
(ここすっごいえっち、すき)
その瞬間、千空の肩がぴくりと揺れる。
「……ここ。喉」
「あと今の、口拭う仕草」
「私の飲み残し普通に飲むし……」
「飲む時ちょっと目細くなるのもズルい」
矢継ぎ早に並べられた言葉に、千空がじっとりとした目を向けてくる。
「……は?」
「あと近い」
「近いのはテメーだろ」
「寄ってきたの千空でしょ?そんなえっちな喉間近で見せる方が悪い!」
意味不明すぎる理論に、千空が深々とため息を吐いた。
「……テメー朝から何の観察してんだ」
低い声が、静かなリビングに響く。
でもその声すらちょっと機嫌が良さそうで、香穂はますます楽しくなってしまう。
(えーっと、ちょっと、がまんできないですねえ)
「……千空、もっかい寝室行くとかどう?」
そう言いながら、香穂は千空を見上げた。
赤い瞳が、わずかに揺れる。
ほんの数秒の沈黙。
それから千空は、スッと視線を逸らした。
「……却下だ」
声が若干揺れている。
(おっ!?ワンチャンいける?)
「えー。じゃあソファーでも……」 「却下っ」
即答だった。
(ちがったかーーー)
「はやっ!?」
「……ったく、朝から元気だなテメーは」
千空は呆れたように大きく息を吐くと、コトリと音を立ててカップを置いた。
それから、香穂の額を軽く小突く。
「……まあ、夜ならいい」
一瞬、空気が止まる。
次の瞬間。
「やった!!予約!!キャンセル不可だからね!!」
ぱっと顔を輝かせる香穂に、千空が呆れ半分で肩を竦める。
「あー、わかったわかった……」
その声は、なんだかんだで少し甘かった。
2026/05/14
2026/05/14