窓越しのパララックス
秋の柔らかな日差しが街路樹を黄金色に染める昼下がり。
「あのお店のパスタ、アタリだったねぇ」
「石神さんの選ぶお店、ハズレがなくて最高!」
同僚と一緒にランチを終え、オフィスビルへ戻る道すがら。
なんてことない雑談に笑いながら歩道を歩いていた私は、ふと道路の向かい側にあるガラス張りのカフェに目を向けた。
(……あれ?)
視線の先、窓際の特等席に「彼」がいた。
今朝、眠たげな顔でラボへ向かったはずの私の夫。
トレードマークの赤マントと白衣ではなく、グレーの軽いジャケットを羽織っている。
手元には資料もなく、ただコーヒーカップを眺めていたその表情は、柔らかく穏やかなものだった。
(千空?なんでこんなところに……)
私が立ち止まって凝視していると、彼がふっと顔を上げた。
視線が、交差する。
千空は一瞬だけ意外そうに目を丸くしたが、次の瞬間、私にだけ分かるような微かな笑みを浮かべ、赤い瞳を優しく細めた。
手を振るわけでも、声を出すわけでもない。
ただただ、静かな視線。
すると、千空の横からひょいっと別の影が顔を出した。
サングラスを頭に乗せ、軽く変装したあさぎりゲンだ。
(あ、ゲンくんとお昼食べてたんだ……)
ゲンは千空の視線を追い、私を見つけると「あ、香穂ちゃ〜ん!」と言わんばかりに、ぱっと顔を輝かせてにっこりと笑った。
「ちょっと見て!!向かいのカフェ!!」
同僚のひとりが絶叫に近い声を上げた。
「嘘でしょ!?あの窓際の二人……石神博士と、あさぎりゲンじゃない!?ほっ本物だ!本物だよ!!」
「えっ、石神さん見て!!本物の博士だよ!!白衣着てないの、超レアじゃない!?」
同僚に腕を掴まれ、ガクガクと揺らされ、私は慌てて視線を外した。
心臓がうるさい。
「ほ、ほんとだ、すごいですね。こんなところで見られるなんて、ジーマーでゴイスーでバイヤー……」
棒読み気味に誤魔化しながら、私は伏せ目がちに早歩きを始めた。
私の反応を見て、状況を察したらしいゲンが、私の同僚たちに向かって軽やかに手を振っている。
窓越しのファンサービスだろう。
一方の千空は、もう窓の外には興味がないといった風に視線を戻し、コーヒーを啜っていた。
──ブブッ。
バッグの中のスマホが、短く震えた。
周囲にバレないよう、そっと画面を覗き込む。
通知画面に表示されているのは、登録したばかりの【 夫 】の文字。
『あとでな』
(…………っ)
その下の、たった一言のメッセージ。
じわじわと、胸の奥に熱いものが染み渡っていく。
『あとでな』
家に帰れば、今日起きたなんてことのない出来事を千空と話すのだ。
昼休みのオフィス街。
道行く誰かが千空に気付いても、その千空がメッセージを送っている相手は、私。
「……石神さん?顔、真っ赤だよ?やっぱり博士のオーラに当てられちゃった?」
「えっ、あ、……そ、そうかも!やっぱり、ホンモノはスゴイです!ね!」
緩みそうになる口元を必死に引き締め、私は同僚たちを急かした。
「ほ、ほら、皆さん!早く帰らないと午後の始業時間に遅れちゃいますよ!」
「やー!いいもん見たわ!午後も頑張れそう!」
背後で賑やかに騒ぐ声を遠くに聞きながら、私は足早にビルのエントランスへと駆け込んだ。
今日はいつも以上にはやく帰ろう。
あの“あとで”の約束があるのだから。