唆るの主語
「……チッ、非効率の極みだな」
深夜のマンション、静まり返ったエントランスを通り抜けながら、俺は低く毒づいた。
2時間で終わるはずだった復興記念の独占取材。
蓋を開けてみれば、旧世界の価値観に固執した記者どものくだらねぇ質問攻めで、気づけば日付けが変わっていた。
あんな中身のねぇ情報の垂れ流しに時間を取られるくらいなら、ラボで試薬の沈殿を眺めている方が100億倍マシだ。
苛立ちを隠そうともせず、俺はリビングに入ると、身体を締め付けていたジャケットを脱ぎ捨てた。
そのまま、吸い寄せられるように寝室のドアを静かに開ける。
暗がりの部屋。微かに聞こえる規則正しい呼吸音。
香穂は、とっくに寝に入っているはず。
俺は起こさないよう足音を殺してベッドの側まで歩み寄り、ふぅ、と深い溜息をついた。
ネクタイのピンを外し、シュルリと布地が擦れる乾いた音を立てながら、結び目をゆっくりと緩める。
首周りの開放感にようやく仕事モードのスイッチが切れかかった、その時だった。
(……あァ?)
背中に、妙に熱を帯びた「視線」を感じる。
ベッドの上、狸寝入りを決め込んでいるらしい女が、睫毛の隙間からじっとこちらの挙動を観測している。
「……起こしたか?」
低い声で問いかけると、香穂がビクリと肩を揺らした。
「……っ!」
香穂は慌ててギュッと目を閉じ、布団を鼻先まで引き上げる。
「……なんで、起きてるって分かったの」
「ハッ、そりゃあな。あんだけ熱烈に見つめられて、気付かねえほうがおかしいだろ……何見てやがった」
俺が呆れ半分に尋ねると、布団の中から掠れた声が返ってきた。
「……だって、ネクタイ緩めてる千空、すっごい……唆るんだもん……」
「……」
脳内に残っていた取材の苛立ちが、その一言で一瞬にして霧散した。
「……ククク。テメー、深夜に何口走ってやがる」
俺はベッドの端に腰を下ろし、身を乗り出して香穂を覗き込んだ。
至近距離で目が合う。香穂の瞳は、俺の服の乱れを食い入るように見つめ、知恵熱でも出しそうなほど潤んでいた。
「………かっこいいんだもん。もうちょっと、見せて……」
「却下だ。テメーは明日も仕事だろ。これ以上脳を興奮させてどうすんだ」
俺は迷いなく、大きな掌を香穂の顔に被せた。
視界を完全にシャットアウトするように、彼女の目元を熱い掌で覆い隠す。
「千空、見えない……」
「……見てんじゃねぇよ。さっさと寝ろ」
手のひら越しに、香穂の長い睫毛がパチパチと瞬く感触が伝わってくる。
逃げ場を奪われ、俺の体温に閉じ込められた香穂が、ううと喉を鳴らした。
「……寝ろっつってんだよ」
「……ケチ……おやすみ千空」
数分後。
手のひらの下で、ようやく彼女の呼吸が深く、安定したリズムへと変わる。
暗闇の中、俺は片手で香穂を強制終了させたまま、もう片方の手で緩めたネクタイを完全に引き抜いた。
「……ったく。テメーの方がよっぽど唆るっつーの」
俺は、眠りに落ちた嫁の目を覆っていた手を、そのまま愛おしむように頬へと滑らせた。