スツールを滑らせる音が、俺たちの寝かしつけの合図
「……香穂。完全に落ちる前に寝室へ移動しろ。テメーを運ぶ筋力は、あいにく俺にはねぇからな」
リビングのソファ。意識が微睡みの海へ沈みかけていた耳元に、聞き慣れた低くカサついた声が届く。
もはや石神家の定型文と化した千空の促しに、香穂は重たい瞼をこすりながら立ち上がった。
「……ん。千空、このあとはどうするの?」
「あー、まだ片付けなきゃならねぇモン残ってっからな。テメー寝かしつけたら書斎戻るわ」
「そっか……」
淡々としたやり取り。いつも通りの、なんてことない会話。
香穂もそのつもりで、ただ短く返事をしたはずだったが、なにかが引っかかったのか千空が動きを止める。
「……なんだ。ご不満か?」
千空が少しだけ身体を折り、香穂の顔を覗き込んでくる。
至近距離で合う、鋭いけれど穏やかな赤い瞳。
「……え?なにが?」
「……いや。気のせいか。ならいい、ほら寝るぞ」
千空は短く鼻を鳴らすと、寝室のベッドへ先回りし、バサリと羽毛布団を捲り上げた。香穂は促されるままシーツに滑り込み、サイドテーブル側を向いて横になる。
部屋の端に置かれたスツールを千空が音もなくスーッと滑らせ、枕元でわずかにトンッとだけ木の音を立てて据え置く。
その規則正しい生活音は、香穂にとって世界で一番確実な安眠の合図だった。
スツールに腰を下ろした千空が、既に落ちかけている嫁を見てフッと口角を上げる。
大きな手が香穂の頭に乗せられ、指先が髪を梳くように動き出した。
「……」
千空の腕が鼻先をかすめるたび、慣れ親しんだ清潔な柔軟剤の香りが鼻腔をくすぐる。
石神家の、生活の匂い。
時折、千空の指先が遊びのように瞼や目尻をなぞり、ゆっくりと香穂の精神の緊張を解いていく。
不意に、微かな別の匂いが混ざった。
指先から立ち上る、芳醇で少しだけ鋭い、コーヒーの香り。
(……あ、コーヒーのにおい……)
生活の安らぎと、彼の知性の香り。
二つの匂いが混ざり合う境界線で、香穂はとろけるような幸福感に包まれる。
頬から耳の後ろへ、さわさわと一定のリズムで繰り返される指先は、どこまでも深く、穏やかだ。
「……せん、く……」
「ん?」
「て、かして……」
香穂はシーツから細い腕を伸ばし、耳の後ろを撫でていた千空の手をぎゅっと握りしめた。
そのまま、自分の頬へとその大きな掌を誘導する。
「……」
千空は文句も言わず、されるがままに香穂の頬を包み込んだ。
手のひらから伝わる、千空の体温。
それを最後の一滴まで吸い込むように深く息を吐くと、香穂の意識は一瞬にして深い深い眠りへと吸い込まれていった。
数分後。
「……落ちたか」
完全にシャットダウンした嫁の寝顔を確認し、千空は満足げに独りごちた。
だが、書斎に戻るはずの身体は、まだスツールに根を張ったままだ。
千空は、手のひらの中に収まった香穂の頬を、指先でぷにぷにと少しだけ悪戯っぽく突く。
「……テメーの寝顔は、3700年経とうが変わらねえな」
千空は最後にもう一度だけ、香穂の頬をぷに、と指先で押す。
「……ハッ」
満足げに鼻を鳴らし、今度こそ書斎へと足を向けた。