その嫁、私なんだけど
「……あー、もう、かゆい……最悪」
リビングのソファに座っていた香穂が、左手の薬指、プラチナのリングが収まっているあたりを爪で慎重に掻きはじめた。
その微かな衣擦れの音に反応し、隣で資料をめくっていた千空が手を止める。
「……かぶれたか?いや、素材はプラチナだし、接触性皮膚炎の可能性は100億%ねぇな」
千空は隣へ滑り込み、背中側から腕を回すようにして香穂の手を取った。
細く器用な指先が、香穂の薬指の付け根を検品するように優しくなぞる。
「……ハッ。虫に刺されてんな。なんでピンポイントで、んな面倒な座標狙われてんだ」
「知らないよ、私が聞きたい……かゆい…」
香穂が困ったように眉を寄せると、千空はじっとしてろと短く言った。
千空が自分の首筋に手を伸ばし、服の中に隠れていたシルバーチェーンを引っ張り出すと、留め具を外す。
チャリ、と硬質な金属音が静かな部屋に小さく響いた。
チェーンに通してあった自分用の指輪を抜き取り、それを迷いなく、自身の左手薬指へと滑り込ませる。
続いて、香穂の指から指輪を丁寧に抜き取った。
「……千空?」
問いかける香穂に答えることなく、千空は彼女の指輪を空になったチェーンに通し、今度はそれを香穂の首へと掛け直す。
「ほら。治るまでとりあえずこうしとけ。これなら薬も塗りやすいだろ」
「……うん。ありがと」
香穂は、千空の指へ移った銀色を見つめた。
いつもは作業の邪魔だと言って鎖に繋がれ、服に隠れているそれが、今は正しく彼の細く長い指の付け根に収まっている。
いつも見ている指輪。
けれど、そこにあるのが当たり前ではない場所にあるだけで、心臓の奥が不意に熱くなった。
(……あ。千空、本当に私の旦那なんだ……)
そんな、今さらすぎる、けれどこれ以上なく甘い事実に脳内メモリが占拠され、香穂の口元がこらえきれずにニヤニヤと緩んでいく。
それを見逃さなかった千空は、ニヤリと意地悪な口角を吊り上げた。
「……わりぃな。見ての通り、俺は既婚者でな」
得意気に自分の左手を見せつけてくる。
「えっ……?」
「家で待ってるポンコツな嫁が居るからな。テメーの誘いに乗る余地は、1ミリもねぇんだよ」
「…………」
一瞬の沈黙。
千空が何を言っているのか理解した瞬間、香穂は顔を真っ赤にして叫んだ。
「……えっ、なにそれ!?私、今フラれたの!?」
「クククッ、100億万点に唆る反応だな」
千空は声を上げて笑い、真っ赤になって抗議する嫁の頭をぐしゃりと撫で回した。
「千空、その嫁、私なんだけど!? ねぇ、私フラれたままなんだけど!!どういうこと!?」
2026/04/15
2026/04/15