コーヒーくらいは淹れよう
「やば……真っ暗……もう誰もいない?」
少し集中しすぎたらしい。気が付けば時計の針はすでに23時を回っていた。
研究室の扉を開くと、廊下はすでに真っ暗で、非常口を示すライトだけがぼんやりと光っている。
完成したばかりの資料を抱きしめながら暗闇の中一歩足を踏み出すと、センサーライトが一気に廊下を照らした。
眩しいくらいに輝くライトに、ほっと息をする。
「あー、やばい。今日中に渡すって言っちゃったのになあ……」
『やり直しってほどじゃねえが、もう少しまとまんじゃねえか?』
『これは……確かにそうですね。わかりました!今日中には大丈夫です!』
『おー、ヤル気あんな。頼んだ』
昼過ぎにわたしの居るフロアへ顔を出した千空が、ほかの研究員が作った資料を渡してきた。
どこかの企業へ提示する資料らしく、もう少し読みやすくしてほしいとのことだったので、言われた通り修正をしていたのだ。
「こんな時間じゃ、さすがのドクターでも帰ってるよね……」
静まり返った廊下に、コツコツと自分の靴音だけが響いている。
千空の退勤時間が比較的遅めなことは知っていたが、そろそろ次の日を迎えようとしているこんな時間まで残っているとは考えられなかった。
「たのむ!おねがい!!誰か居て!」
それでも、研究棟のどこかに、誰か一人でも残っていてくれれば。せめて千空のデスクに置くことができれば。
誠に勝手ながら、それを持って本日中の提出としたい。
そんな都合のいいことを考えながら、エレベーターに乗り千空の研究室へと向かう。
「あっ!灯り点いてる!よかった……」
研究室の灯りが点いているならば、残っている人が誰であろうと書類の提出くらいなら出来るだろう。
願わくば都合よく千空でありますように。祈るような気持ちでボタンを押すと、シューと音を立てドアが開いた。
正面に誰かいる。
ただし、姿形はまったくもって千空ではなさそう。
「……おや、こんな時間に誰かな?」
「えっ、あっ、Dr.ゼノ!?」
「君は……ああ、千空の助手の」
『寝るのも仕事のうち』と言い切り、いつもならばこんな遅い時間まで残ることのない人の姿に両目を見開いた。
「Dr.ゼノ、こんばんは……こんな時間までいらっしゃるの、めずらしいですね……」
「気になることがあったからね。そろそろ帰ろうとは思っていたところだが」
なるほど確かに、ゼノの座っていたデスク付近以外は灯りもPCもすべて消えている。
「えっと……まあ答えはわかってはいるんですけど、ひとつ聞いてもいいですか?」
「どうぞ」
「……Dr.千空は?」
ゼノが壁に掛けられた時計を一度見る。
「千空ならば、2時間ほど前に帰ったよ」
「……ですよねえ」
まあ、そうだろう。予想通りだ。
「それは、千空が昼間弾いた資料かな」
「え?」
胸に抱いた紙束に、ゼノの金属製の長い爪が向けられる。
「あ、はい。Dr.千空に、見やすいよう修正しろ、と指示されたものです」
「見せてごらん」
差し出された手に紙束を渡した。
「少し読ませてもらうから、そこに掛けるといい」
「あ、はい」
ゼノの目の前に置かれた椅子を指され、おずおずと腰を下ろす。
千空を交えた会話は幾度なくしてきたが、対面でふたりきりで会話するのは初めてな気がする。
彼の、独特なオーラに少し背筋が伸びた。
室内は静かだった。ゼノがペラリと資料をめくる紙の音だけが響いている。
「指示されていた箇所と、あと全体の流れの見直し。必要か分からなかったのですが、一応英語版も用意しました」
「……」
無言だ。この間が怖すぎる。
良いのか悪いのか一言でいいから言ってほしい。
大学で、卒論の草案を教授に見せたときのあの胃の痛い記憶が蘇るようだった。
「実にエレガント。悪くない。気になるのは一箇所だけ。修正というより表現の違いだな」
ゼノが、デスクの引き出しから赤ペンを取り出し、資料をデスクに広げる。
「日本語版は問題ない。英語版も十分伝わる」
ゼノは一か所だけ赤線を引いた。
「ただ、この場合は"prove"ではなく"demonstrate"だね」
「違いがあるんですか?」
「意味はほぼ同じだ。しかし科学者は"証明した"とはあまり言わない。『データが示した』程度に留めるほうが一般的だ」
「へぇ……」
「研究というのは、慎重な言葉選びも仕事だからね」
慌てて説明してもらった箇所にメモを入れる。書き終えて資料から顔を上げると、ゼノが口角を上げた。
「君は理解が速い。一度の指示から必要な情報を抽出し、ここまで再構成できるなら十分優秀だ」
「そうですか?」
「ああ。少なくとも、助手としては申し分ない。……千空は良い助手を持っているね」
「褒めすぎです。だいぶタイムオーバーしてますし」
「許容範囲だろう。受取主はとうに退勤済だ」
そう言うとゼノが立ち上がる。
「もう急ぐ理由はないだろう?一杯どうだい」
「え?」
まるでアルコールでも飲みに行こうと言うかのような口調で言われ、思わず強張る。
しかし、そんなわたしの返事など聞かずにゼノは奥へと消えていった。
お酒は、ちょっと苦手なんだよなあ……戻ってきたら断らなきゃ、と断る理由を探していると、奥から芳ばしい香りが流れてくる。
「……コーヒー?」
片手にタンブラー、もう片手には真っ白なマグカップを持ったゼノが奥から現れた。
「深夜に誘う飲み物じゃあないかもしれないが」
コトリと音を立てテーブルにマグカップを置く。ゆらゆらと黒い水面が湯気と共に揺れていた。
「わあ!もしかして、噂のドクター特製コーヒーですか!?」
「おお、噂かどうかは知らないが、オリジナルブレンドではあるね」
追加でポーションミルクとスティックシュガーが添えられ、思わずゼノの顔を見る。
「ブラックは苦手だろう?」
「えっ、なんで?」
「なに、簡単さ。君が来ると、そこのミルクとシュガーが減っている」
確かに千空と打ち合わせしつつ、ここでインスタントコーヒーを頂くときは遠慮なくミルクもシュガーも入れていた。
コーヒーは好きだが、ブラックでは飲めないお子ちゃま舌なのだ。
まさか直接関わってきたわけではないゼノにまで覚えられるほど頻繁だったのか、と少し気まずくなった。
「千空の助手は楽しいかい?」
わたしの気まずさなど気付いてもいない様子で、ゼノが話しかけてくる。
「毎日振り回されてます。でも、それ以上に面白いんです」
「……君はいつも楽しそうに笑っている」
ゼノが、ゆっくりとタンブラーを傾けた。
「Dr.ゼノも楽しそうですよ?」
「僕がかい?」
「はい。Dr.千空と話されているときは、特に……」
ゼノが目を細める。
「科学の話をしている千空は、実に楽しそうだからね」
「Dr.ゼノもですよ」
「そうかな」
ふたりであーでもない、こーでもない、と周りを置いてけぼりで討論し合っている様子を思い出す。
「はい。難しい話なのに、お二人とも子供みたいで」
「……それは褒め言葉として受け取っておこう」
ゼノが少し笑った。
この人こんなにやわらかく笑うんだな。
「あ、すみません、なんか偉そうに……」
「構わない。勤務時間はとうに過ぎてるだろう、雑談するにはいい時間じゃあないか」
「でも、意外でした」
「なにがだい?」
「Dr.ゼノは、もっととっつきにくい人かと……」
ゼノが驚いたように目を開き、まばたきを一度する。
「ほう?」
「世界トップの科学者で、Dr.千空ですら一目置いてて……あの……」
正直に言って良いものか。
「気にせず続けると良い」
ゼノが愉快そうにタンブラーを揺らす。
「……えっと、たまに“衆愚”とか仰ってるので……もっと怖い人なのかと」
「なるほど」
ゼノは小さく笑う。
「少なくとも、君はそこまで私を恐れて話せなくなるタイプではなかったようだ」
なんだか、自然と話してしまっていた。
「それで、印象は変わったかい?」
「意外と、とっつきやすい人だな……になりました」
バカ正直に言いすぎた。
なんだか、スルスルと言葉を引き出されてしまった気がする。
怒らなければいいけど、と恐る恐るゼノを見たが、どうやら杞憂のようだ。
「その評価ならイメージアップには成功したようだ」
目が合う。先ほどまでの鋭い眼差しはそこにはなく、まるでこちらの反応を面白がっているようだった。
ドキリと跳ねた心臓がうるさい。
慌てて残りのコーヒーをぐいと飲み干した。
「ごちそうさまでした」
マグカップを返すと、ゼノはそれを受け取って一言だけ言う。
「また遅くまで残るようなら寄るといい」
「え?」
「コーヒーくらいは淹れよう」
それだけ言うと、ゼノは何事もなかったように奥へと消える。ゼノの後ろ姿に向かってペコリと一度お辞儀をして研究棟を後にした。
外へ出る頃にはとっくに日付は変わっていて、チリチリと虫の声だけが響いている。
深夜の研究棟で飲んだ一杯のコーヒーは、しばらく忘れられそうになかった。
2026/07/01