ハグしていい?
その日はいつも通り研究室で過ごしていた。
頼まれた資料をまとめたり、足りない備品を発注したり。
厳しいが案外褒め上手な上司のゼノと、人使いがとてつもなく荒いくせに分かりにくい優しさをたまに出してくる千空に、皆が右往左往させられながら、ラボはいつも通り賑やかだ。
しかし突然その賑やかさの種類が変わる。
「手を上げろ」
低い、静かな声だった。
背中に冷たいなにかが突き付けられた。
「言う通りにしろ」
正面の千空が眉を顰めた。
わたしの背後に視線が向いている。
「おい」
「千空、刺激しないほうがいい」
一歩踏み出そうとした千空をゼノが止め、わたしを見て一度頷いた。
(言われた通りにしろってことかな……)
恐る恐る両手を上げる。
突き付けられている背中の中心が、やけに冷たい。そこに神経がすべて集まっているような、そんな気分だった。
「……抵抗する気はありません」
なるべく刺激しないように。わたし以外の誰にも被害が及ばないように。
張りついた喉からゆっくりと声を出した。
「……俺としては、抵抗してくれたほうが攫い甲斐あんだけど」
「え?」
急に、先ほどとは違う聞き慣れた声が背後から聞こえ、ゆっくりと振り返る。
「スタン!?」
「アンタ、相変わらず素直でクソかわいいね」
スタンリーがこちらを見下ろして笑っている。
「……冷や汗で背中びしょびしょなんだけど?」
「俺が拭いてやんよ」
「やめて」
白衣の下に伸ばそうとしてきた手を叩くと「イテ」と笑いながら、スタンリーの方が大げさに両手を上げた。
「ダーリン、いい加減ハグしていい?」
「うん」
長い腕がわたしを一気に包み込んだ。
そこでようやく、張り詰めていた息を吐く。
本当に肝が冷えた。
怒りの意味を込めてスタンリーを見上げるが、そんなこと気にする様子もなくうれしそうにわたしの手を掴み、手のひらにキスをしてきた。
「ダーリン、久しぶり。浮気してない?」
「ゼノと千空の科学バカの間でなにが起きると思ってんの?」
「万が一ってこともあんじゃん?」
「あるわけないでしょ」
チュッチュと音を立てながら吸われる手のひらの感触に、苦笑する。
「関係者以外立ち入り禁止の文字見えねえのかオッサン」
「あ?日本語読めねえんだ英語で書けよ」
「アホか。もともと英語だわ」
「ああ、そうだった、そういや関係者だ。悪ぃな」
「自称だろ」
耳をほじりながら、心底あきれた様子で千空が言った。
「やあスタン、ずいぶん早いお帰りだね」
「あぁ、先生。目一杯ぶち込んでくれて感謝してんぜ。おかげで何日巻いたと思ってんよ」
数日前からスタンリーが海外に出ていることは知っていたが、ゼノの依頼だったことを今になって知る。
聞けば教えてくれたのかもしれないが、今まであえて聞いたことはなかった。
どこへ行くのか、いつ帰る予定なのか聞いてしまうとその日を指折り数えて待ってしまう方がつらい。
それを知ってか知らずか、スタンリーもわざわざわたしに言うことはなかった。
わたしよりもずっと背の高いスタンリーを腕の中から見上げる。
(……この人ほんとにわたしの彼氏なんだ)
「僕が組んだスケジュールだ。有意義だっただろう?」
「苦行でしかねえよ」
ぺたりと胸に寄りかかるとトクトクと波打つ心臓の音が聞こえる。
(スタンの心音、落ち着く)
彼の心音も、彼がシャワーの後に振りかけるフレグランスの香りも。広い胸板も、フレグランスに負けずに主張してくる紫煙の香りも。
みんな好きだ。
久しぶりに感じるスタンリーが嬉しくて、わたしはぐりぐりと彼の胸板に頭をこすりつけた。
「スタン」
「……なんよ」
「すき」
ほんの少し回した腕にちからを入れる。
「……ダーリン。そういうコトは、こっち見て言いな」
「恥ずかしいからヤダ」
「アンタの最高にかわいい顔見ながら、もっかい聞きたいね」
つむじにキスが落ちてきた。
「おお、スタン。口説くならもっと場所を選んでおくれ」
「口説いちゃいねえよ。お願いしてんだ。切実にな」
抱きしめたまま離す気のなさそうなスタンの手が、わたしの背中を大きく撫でる。
「いやイチャつくんならその助手連れて帰れよオッサン」
「だからイチャついてんじゃねえ。見せつけてんだよ」
「っあ゛ー。だから同じだっつってんだろ!タチ悪ぃな」
頭上で飛び交う会話は全く耳に入らない。
背中を撫でる手の心地よさを味わうべく、わたしはゆっくりと目を閉じた。