●知らない鍵
(……うーん、まだクラクラする)
熱がある。
昨夜から微妙だった体調は、今朝になって悪化したらしく、夕方の現在も絶不調真っ只中だった。
動くのも億劫で、布団の中でただ呼吸を繰り返すことしかできない。
そんななか、玄関から電子音が響いた。
チャララララン
某コンビニのチャイムと同じドアチャイムの音がするアパートだった。
完全に、いらっしゃいませなやつじゃん!と、面白半分で契約した思い入れのある音。
でも服が擦れる事さえ不快な今のわたしには、その陽気な電子音がやけにうるさく聞こえた。
チャララララン
二度、三度、ドアチャイムが薄暗い部屋に響きわたる。
無視を決め込もうとしたが、何度も繰り返される音に観念して、ベッドから身を起こした。
その直後、ガチャリと鍵が開く音がする。
(やば、入ってきた!?)
玄関が開き、廊下に足音が響く。
逃げなければと分かっていても、熱で弱った身体はろくに反応することもできず動けない。
(……こわいっ……)
ぎゅっと身を縮めた、その時。
「麻衣クン、生きてますか?」
ぬっと顔を出したのは、先輩の氷月だった。
いつもの黒いマスク。手にはこんもりと膨らんだレジ袋を持っていた。
「……えっ!?氷月先輩!?」
一瞬、夢かと思った。
ほっとして力が抜ける。
「ああ、ひどい声ですね」
「い、いらっしゃいませ……?」
「何を言ってるんですか、君は」
「いや、クセで……ってなんで入ってきて……あれ?夢?」
「……君がこの間、無理やり合鍵を渡してきたんでしょうが」
氷月の指先で、シマエナガのキーホルダーがついた鍵が小さく揺れていた。
そういえばそうだ。
この間、酔った勢いで氷月のジャケットにねじ込んだんだった。
飲み会の帰りに無理やり押し付けたことを思い出す。
「……誰にでも合鍵を渡すんですか」
「だって先輩だし……」
「まったく。信用しすぎです」
氷月先輩はコトリと音を立てて、テーブルに鍵を置いた。
「鍵はここに置いておきますよ……って、なんて顔で見てるんです」
「いや、鍵渡したこと忘れてたから、強盗とかそういうやつかと……」
「人を暴漢扱いですか」
「あの、だってまさか、来てくれるとは思わなくて……」
「熱があるので延期で、なんてメッセージを送っておいて、送られた側が放置できると思っているんですか?しかも、君が一人暮らしだと分かっていて?」
氷月先輩は慣れた手つきでラグからクッションを運び、ベッドの横に腰を下ろした。
「熱は?」
「38度くらい……」
「なかなかの高さですね」
「脳が溶けそうです……」
「まあ、溶けていてもおかしくないでしょうね」
彼はガサガサと音を立て、レジ袋からペットボトルを取り出す。
「経口補水液とゼリーくらいは欲しいかと思って買ってきましたけど……病院は行きましたか?」
「あざいぎまじだ……」
「そこはちゃんとしていたんですか」
氷月先輩は額に貼っていた気休めのシートを剥がし、新しいものに貼り替えてくれた。
彼の指先がひんやりして気持ちいい。
「ありがとうございます」
「何か食べます?お粥でよければ作りますけど」
「いや、さすがにちょっと無理で……えっ!まって!?氷月先輩が作ってくれるんですか!?」
「お湯を差すだけですよ」
「……手作りじゃないんだ……」
「勝手も分からない家で、料理ができるわけがないでしょう」
「しかもお湯って……レトルトでもない……」
「私が帰ったあと、一人で作るならフリーズドライのほうが楽でしょう?その熱ですよ?」
「それは、そうですね……」
じゃあゼリーなら、と言い、手渡されたパウチのゼリーを飲む。
袋の中身がちらりと見えて、息が止まるかと思った。わたしの好きなぶどう味が、いくつも入っている。
「先輩、わたし寝ても起きるまで居てくれます?」
「嫌ですよ。感染ったらどうするんですか」
「ひどい……今の流れなら『もちろんです』とか言ってくれそうなのに」
彼は小さくため息をつき、私の頬にそっと冷たい手を添えた。
「つめた……きもちいい……」
「……寝るまでは居ますから。早く寝てください」
わたしはへへっと力なく笑い、その心地よい冷たさを堪能しながら意識を手放した。
*
目覚めると、氷月先輩の姿はなかった。
少しだけ熱は下がっている。わたしはふらつく足でベッドから起き上がり、リビングのテーブルへ向かった。
テーブルの上には、あのシマエナガのキーホルダーがない。代わりに、ただの裸の鍵が一つ、ぽつりと置かれていた。
「……え、なんの鍵?」
不審に思い、氷月に電話をかけた。
「もしもし、先輩?あの、テーブルの上の鍵、わたしの家のじゃないんですけど?」
『ああ、うちの鍵ですね』
「え、先輩の家の!?」
『そうですけど』
「えっえっえーー!?」
『君だけ渡したままというのも不公平でしょう』
「えっ!ちょっと!先輩!?」
『では、お大事に』
ブツリと通話が切れる。
「あ、あの!わたし、先輩の家、住所すら知らないんですけど!?」
ただスマホの画面が冷たく光っている。
テーブルの上には、氷月が置いていった鍵と差し入れが残っていた。
「……いや待って。氷月先輩、ほんとに渡してきたの?」
(回収し忘れたとかじゃなくて?)
恐る恐る触れる。
昨夜触れられた氷月の指のように、冷たくひんやりとしていた。
「か、か、か!!!家宝じゃん!?」
その日、熱がぶり返した。
2026/06/07