それはとある日の朝だった。
『久しぶりに陸に戻るんだ。少し会えないかな』
そう羽京くんから連絡が来た瞬間、私は勢いで返信した。
『迎え行くよ!車買ったの!』
この車、いつまで乗るの?
すこし前、私は念願のマイカーを中古で手に入れた。
年式はかなり古い軽自動車で、色褪せた水色のボディーはところどころ小傷だらけだった。
手動のスライドドアはキイキイ変な音はしていたが、それでも念願のマイカーというフィルターがかかれば、すべてが可愛く見える。
安かったのだ。
そしてちゃんと走る。
うん、言う事なし。
運転技術に関して心配をしてくれたのか、合流場所に指定されたのは宿舎ではなく、宿舎から少し離れた大型駐車場のあるコンビニだった。
「わあ」
先に待っていた羽京くんが、私の車を見るなり目を丸くした。
「……思ってた以上に古いね」
「安かったからね。でもちゃんと走るよ!」
「いや、そこは最低条件じゃないかな……」
呆れ半分の声に、私は得意げに胸を張る。
「エアコン、パワステ、イモビライザー(盗難防止システム)付き!」
「この車にイモビいる?」
「……いらないけど、せっかく付いてるし」
羽京くんが苦笑した。
助手席に乗り込んだ彼を確認して、エンジンをかけた次の瞬間だった。
「うるさっ」
羽京くんが顔をしかめる。
「あっ、ごめん!羽京くん耳良いからうるさいよねえ。古いからめっちゃ音するんだよねこの車……」
エンジン音がうるさい。ついでによくわからない場所もかたかた鳴っている。
「ハイブリッド欲しかったけど中古でも高くてさあ」
エンジン音に負けないよう、自然と声が大きくなった。
「これ、エアコンもオンにしちゃうと会話聞こえないんだよ。窓全開でもいい?」
「いいけど、風音で余計聞こえないんじゃない?」
「あとね、この車すごいの!パワーウィンドウ、運転席と助手席だけ!!」
「え?」
私の言葉に、羽京くんが後部座席を見る。
「わっ、懐かしい。手動?」
「そう!くるくる回して下げるやつ!おじいちゃんの車とかに付いてた!」
「前だけパワーウィンドウかあ……」
「後ろは物理的パワーウィンドウ!!」
「あはは」
乾いた笑い。
「いや、ごめん、無理しなくていいよ……思ったより寒かった……」
窓は全開で、騒がしいエンジン音に、ガタガタ揺れる軽自動車が、海沿いの道路をのんびり走る。
「僕が車買うから、それ乗ってていいよって言ったのに」
風に流されそうな声で羽京くんが言った。
「いやいや、そういうわけにいかないでしょ」
「羽京くんの車なのに、私の方が遥かに乗ってる時間長くなっちゃうし」
「放ったらかしにしてバッテリー上げちゃうより良いのに」
「でも気が引けるから、わたしはこのボロでいいかな」
羽京くんのことは好きだ。
でも、付き合っているのかと聞かれると分からない。
陸に戻る時だけ会って、また離れる。
羽京くんはいつだって誠実で、だからこそ私は踏み込めなかった。
ちらりと助手席を見る。
羽京くんは窓の外を眺めながら、風に髪を揺らしていた。
「うるさいけど、悪くないね。この車」
「そう?」
「うん。ちゃんと顔見て話さないと聞こえないからかな」
「顔?」
私は首を傾げる。
「ほら、エンジン音うるさいし」
「あー、たしかに!私、今、羽京くんの顔見れないから、めっちゃ声張ってるもん!」
「普段より、君のこと近く感じるからかな」
「え?」
「なんか、いつも一線引かれてる気がしてるからね」
エンジン音に紛れるくらい小さな声で、羽京くんがぽつりと零した。
「なんて!?ごめん聞こえなかった!」
羽京くんは一瞬だけこちらを見た。
「この車、いつまで乗るの?って言った!!」
「あー、買う時に車検取ったばっかだから、あと2年は乗りたいなあ……」
「うーん、そこまで乗れるかな」
「なんで!?」
笑いながら、ダッシュボードの辺りを軽く叩く。
「なんかこのへん、変な音してるよ」
「いや!困る!!車両代より車検代が高かったのに!!」
羽京くんが肩を揺らす。
「だから僕が買うから、乗り換えようよ?」
「いやいや!まだ買ったばかりなの!」
開けた窓から風が吹き込んで、ごうごう鳴っている。
風だけでなく、エンジン音も、ガタガタ揺れる車体も全部うるさいこの車。
引かれた線も、引いた線も、ぜんぶうるさくてかき消えたみたいに、会話がたのしかった。
『この車、いつまで乗るの?』
その言葉だけが妙に残る。
目的地までは、まだ遠い。
2026/05/19
▼top