鳥居の向こうの鬼
────夏祭りが終わる。
見渡す限り田畑が広がる景色の中、その中心にすこし大きめの神社があった。
神主が常駐しているわけでもなく、いつも静かな神社だが、この日だけは灯籠や提灯に光が灯り、境内は煌々と輝いている。
この祭が終われば、この辺一帯はすぐにでも秋の準備を始めなくてはならない。
夏の暑さを惜しむような、秋の収穫を期待するような、そんなどちらとも言えないこの夏祭りが、わたしは好きだった。
「浴衣かわいいじゃん」
「いいでしょ?ばあばに縫ってもらったの」
袖を掴み、ひらりと回る。
「え、すごっ、手縫い?」
「そう、ばあばの最後の大作だって。……まあ、最後の大作って言って何着縫ってんのかわかんないけど」
「ウケる。アンタんちのばあばってかんじ」
一目惚れだった。
すこしくすんだ白地に、緑の蝶がひらめく美しい柄。
畳に広げられた反物から、今にも蝶が飛び立つのではと思うほどで、わたしはその反物を食い入るように見つめていた。
姉か、わたしか、どちらに仕立てるかと悩んでいた祖母に、ぐいぐいと迫ってわたし用に仕立ててもらったのだ。
「あーあ、これで彼氏でもいればなあ……」
一緒に祭を見に来た友人が、カラコロと草履を鳴らしながら隣を歩く。
「もう、懲り懲りなんじゃないの?」
つい先日友人が「彼氏バカすぎ!捨ててきた!」と言っていたことを思い出す。
笑いながら彼女を見れば、黒地に赤い牡丹が美しい浴衣が祭提灯の光を反射していた。
「せめて祭りまではとどめとくべきだったかも……」
「……それって、祭に行く相手がわたしじゃご不満ってこと?」
「うーん……」
「ちょっと!」
「うそうそ!感謝してまーす」
彼女は冗談を言い合える、わたしにとっては大切な友人だ。
軽く友人の肩を叩けば、友人がイテテと大げさに肩を抑え、ふたりで笑った。
「あ、ねえ、帰りさ。ほんとに乗っていかないの?」
家族が車で迎えに来るのだという友人が、心配そうに首を傾げる。
「うん、最後の締め見たいから、もう少し残る」
「うげ……あんなの何が面白いの」
祭の最後はいつも、氏子たちの手拍子で締められる。
ぱん、ぱん、ぱん。と大勢の手拍子が鳴るその瞬間が好きで、昔からその最後を見届けてから祭をあとにするのだ。
心配そうな友人に、ニコリと笑顔を向ける。
間もなくして友人の家族が運転する、可愛らしい軽自動車が近くに停まった。
「……気を付けて帰りなよ?」
「うん。大丈夫、家すぐだし」
友人は、車に乗る直前まで名残惜しそうにこちらを振り返っている。そんな友人にわたしはひらひらと手を振った。
友人を見送ったわたしは神社の石段にハンカチを敷くと、そこに腰を掛け、鳥居の前で盛り上がる氏子たちを眺めていた。
ほどなくして、ヨーオ!という掛け声と共に、ぱん、ぱん、ぱんと手拍子が鳴る。
今年も夏が終わってしまう。
少ししんみりとした気持ちで頬杖を付いていた。
ふと、一度大きく風が吹いた。
直後、煌々と石段を照らしていた両脇の石灯籠の灯りが消えた。
神社の社がある上段から、石段の下段へ。さらにその先の鳥居へと飾られた祭提灯が、ぽつ、ぽつ、ぽつと、一定の速度で光を失っていく。
……こんな演出あっただろうか?
いくら田舎の神社とはいえ、すべては電源を確保した電球の灯りだ。
その証拠にあちこちでエンジン式の発電機がごうごうと音を立てている。
今年は、こんな一定間隔で消えるプログラムを組めるような人でも氏子に居るのか……
いやどう見ても若者は居ない。
氏子の年配者たちには無理なのでは?そんなことを思っていると、横にだれかがドスリと腰を掛けた。
「毎年毎年、ご苦労なこったな」
横に腰掛けた人が話しかけてきた。
(え?)
灯りの消えた石段では顔はよくわからない。
「そもそも、ここには神なんて居ねえつーのに、毎年毎年なァ」
足元を見れば男物の草履を履いている。よく見えないが肩に羽織りを掛けた和服のようだ。
祭の関係者と同じように浴衣でも着ているのか。
聞き覚えはないが、低くよく通る声の青年だった。
神がいない?神社なのに?
「まあ氏子でも、んなこと知ってんのはひとり居るか居ねえか……いや、もう知るやつなんざ居ねえわな」
その低く、よく通る声がやたらと聞きやすい。
初対面の一体誰なのかもわからない青年の話に、ついつい返事をしてしまった。
「神が居ない?」
「……テメー」
暗がりの中、青年の顔は見えない。けれど、こちらを見ているような気配だけが伝わってくる。
「……いや」
青年は何かを言いかけたようだったが、自らそれを遮るように言葉を続けた。
「まあ、神社つーのは立ち寄り所みてえなもんだな。本尊を構えてる寺と違って、神つーもんは社の中に保管された依代に降りてくる場合が多い」
「よりしろ?」
「例えばで言えば鏡だな。社に鏡を祀る。それを依代に神が立ち寄る。祝詞とか聞いたことねえのか?おいでくださいとかクソくだらねえこと言ってんだろ」
「……いや、ちょっと、わかんない」
青年は「そうか」と言ってクククと笑った。
「ここにゃ、依代なんざ無ぇ」
「ない?」
「あァ。最初からな」
風が、また吹いた。
祭提灯と灯籠が、ぽつ、ぽつ、ぽつと消えた時とは逆の順番で光を灯しだす。
先ほどまでの白熱電球の鋭い光とは違い、今度はろうそくの灯りのようなゆらゆら揺らめくやわらかな光だった。
「最初から無いってどういうこと?神社だよね?」
「テメーは、この祭がなんのための祭か知ってんのか?」
なんのための祭?
神社の祭にはそれぞれ意味があることはなんとなく知ってはいたが、この祭の意味など考えたこともなかった。
「豊作祈願とか?」
「ハッ!もうあとは収穫目前にして、豊作祈願する意味はねえな。豊作祈願してえなら、苗を植える頃、もしくは花の咲く頃だ。科学的に考えてみろ。もう実が出来て膨らむだけに豊作祈願してどうすんだ。んなもん祈願してねえで黙って肥料でもやってりゃいい」
祭の意味など考えたこともなかったわたしには、青年の言葉が妙に新鮮だった。
「じゃあ、なんのお祭り……」
自分の乏しい頭では、田舎の田んぼのどまんなかで行われる祭なんて豊作祈願くらいしか浮かばない。
「まあテメーが思うなら、豊作祈願ってことでいいんじゃねえか?」
「……わかんなくて適当に言っただけだから。ちゃんと答えて」
青年が茶化すような口調で答えるので、わたしはムッとして言葉を返す。
「ハッ、建前上は疫病を鎮めるための祭だ」
「建前上?」
「……さっき、依代は無えって言ったろ」
「最初からないって言ってたね」
「ああ、そうだ。つまり“依代ではない”もんが祀られてる」
風に揺れた灯籠の灯りが、青年の顔を一瞬だけ照らした。
それまで暗闇に溶けていた姿が徐々に浮かび上がる。
緑にも見える銀色の髪。
見慣れない赤く鋭い目。
そして、額から覗く二本の角。
「……鬼?」
ぬるい風が角のある青年の前髪を揺らした。
「今頃気付いたか。大正解、100億万点やるよ」
*
どう見ても異形の者なのに、不思議と怖さはなかった。
先ほどから語られる彼の言葉が、鬼という非現実的なものとは異なり、やたら現実的なものだからだろうか。
「鬼って“科学的”とか言うんだ……」
「突っ込むところがソコかよ」
呆れたように笑う鬼は、額の角さえなければどう見てもごく普通の青年でしかない。
いや、ごく普通ではないかもしれないが。
「鬼だろうが人間だろうが、科学つーもんはひとしく平等だろうが」
「非科学的な存在がそれを言うの?」
「まァ、違いねえな」
鬼はクク、と喉の奥で笑うと、そのまま少しだけ身を乗り出す。
「テメーは“依代ではないもの”がなんだと思う」
どうやら、ここからが本題らしい。
「……そんなこと言われても……そもそもアナタはそれがなんなのか知ってるの?」
「あァ、知ってる」
「ヒントは?」
「テメーも毎年見てんだろ」
「……毎年?」
「毎年毎年飽きもせず祭を見に来てんだろ」
「……」
わたしは辺りを見回した。
灯籠。鳥居。石段。祭提灯。
鬼に促され立ち上がる。
そのまま石段を数段登った先の社にたどり着くと鬼が顎でしゃくる。
「ほら、すぐそこだ」
社の横、祭の間だけしめ縄が飾られる大きな石。
──これ?
思わず鬼を見た。
「そういうこった」
わたしの視線に気付いた鬼は、満足気に笑った。
言われてようやく気付くような何の変哲もない大きな石だった。
真新しいしめ縄に真っ白い紙垂が、風が吹くたびひらひらと揺れている。
「これが……祀られてるもの?」
「あァ」
たしかに、先ほど友人と鈴を鳴らしたときも、なんでこんな石にしめ縄が飾られてるんだろう?と思ったところだった。
「でも、ただの石じゃ……」
「だから言ってんだろ。依代じゃねえって」
鬼が、その大きな石に腰掛ける。
「こいつは神を呼ぶためのもんじゃねえ。俺をここに縛り付けるためのもんだ」
鬼がしめ縄を摘み上げると、あっさりとしめ縄は外れた。
それをくるくると指で回している。
「しめ縄って神聖なものじゃないの?」
「しめ縄どころか祭の手順もなってねえんだ。んなもん、ただの縄でしかねえ」
ポイとわたしの方にしめ縄を投げてくるので慌てて受け取った。
「疫病を鎮める……まあ都合よく言ったもんだな」
「違うの?」
「そもそもは、疫病を鎮めるんじゃねえ。鬼を封じる祭だ」
「封じられてるの?」
「一応、な。ここしばらくは、ご覧の通り境内じゃ自由にさせてもらってる」
「意味ないじゃん」
「疫病どころか、豊作祈願だと思われてるくらいには知るやつが居なくなったからな」
鬼を、石から退くように手で払う。
受け取ったしめ縄を丁寧に掛け直そうとするが、その手首を、突然掴まれた。
「……え?」
鬼の指が、わたしの手首を包んでいる。
人間のものより長く伸びた爪が、灯籠の明かりを受けて黒く光っていた。
「やめとけ」
「でも、これ……」
「俺を封じるためのもんだっつったろ」
鬼がわたしの手からしめ縄を取り上げる。
「テメーが掛けるのはダメだ」
「どういうこと?」
鬼が、じっとわたしを見る。
「……知らなくていい」
急に、ぼうっと青い炎がしめ縄を焼き消してしまった。
ちらちらと青い火を纏った塵が降り注ぐ。
触れてみるが、熱くはない。
指先で小さく炎は消えた。
「この祭はな、ずっと昔から形だけ残ってんだ。やり方も、意味も、もう誰も覚えちゃいねえがな」
「じゃあ、どうして今まで続いてるの?」
「さあな」
鬼はそう言って捨てるように笑う。
「ただ、最後の手拍子だけは残った」
「……手拍子?」
「あァ」
じっと、わたしの目を覗き込むように鬼がわたしの顎をくいと指で上げた。
「テメー、あの手拍子が好きなんだろ」
「え?」
「毎年、最後まで残って見ていく」
心臓が、ひとつ大きく跳ねた。
「……なんで知ってるの?」
「毎年見てたからな」
「毎年……?」
「あァ。毎年だ」
顎に添えられた鬼の指が、するりと頬を撫でる。
「……やっぱ、似てんな」
「だれに?」
「……」
答えの代わりに、鬼の顔がゆっくり近づく。
逃げようと思えば、逃げられた。
なのに、なぜか逃げようとは思わなかった。
ほんの一瞬、唇が触れる。
そのたった一瞬に、胸の奥が大きく跳ねた。
「……なんで」
自分でも、何に対しての「なんで」なのか分からない。
「さあな」
鬼も答える気はなさそうで、何事もなかったかのようにスッと離れた。
「さて、そろそろ帰れよ」
鬼がわたしの背後に回ると、そっと背を押した。
「……でも、」
鬼に小さく背を押されながら、ひとつ、またひとつと、石段を降りる。
ほんの数段降りただけのつもりが、気がつけば鳥居の前に立っていた。
さっきまで鳥居の前にたくさん居たはずの氏子は誰も居ない。
「また来りゃいい。俺はこの通り、そこから先へは行けねえ。いつでもここに居る」
鬼はそう言って、少しだけ笑った。
「……じゃあな」
背中を、トン、と軽く押された。
「わ、ちょっ……」
おっとっと、と前につんのめりそうになり、慌てて足を踏ん張ろうとした。
だが、身体はそのまま鳥居の向こうへ押し出される。
慌てて後ろを振り返ると、鳥居の向こう側で、鬼がゆっくりと両手を持ち上げた。
その仕草を見た瞬間、胸の奥がきゅっと締まる。なぜだか分からない。祭の最後に何度も見てきたはずなのに。
今は、どうしてか目を逸らしたくなかった。
鬼が、ゆっくりと手を叩く。
ぱん、
ぱん、
ぱん。
その音が響いた直後、すべての光が消える。
「またな」
低くよく通る鬼の声が消えると、一瞬の暗闇が嘘だったかのように世界に光が戻った。
先ほどのゆらゆらと揺らめく光ではない、目の奥に刺さるような白熱電球の光。
鳥居の向こうの境内では氏子たちが、和気あいあいと祭の片付けをしている。
「……あれ」
鬼は居ない。
鬼の姿など、どこにもない。
けれど、頬に触れた指の感触と、ほんの一瞬触れた唇の温度だけは、妙にはっきり残っていた。
2026/08/26
2026/08/26