知らねえ方がおかしいだろ
頭が痛い。
気圧の変化に弱いらしい私の頭は、タライをかぶせたあとに、がんがんとレンガで叩かれるような痛みが続いていた。
鈍色の空がうっすら明るさを取り戻し始めた。
そろそろ雨が止むのかもしれない。
「……今日は上がる方かあ」
雨が駄目な日もある。晴れる直前が駄目な日もある。
そして今日は、後者だった。
頭の上のタライは、今日に限って強打者の一撃でも受けたかのように鳴り響いていた。
どのフロアでも人の声や機械音が溢れていて、とても室内には居られそうになかった。
しばらくさまようようにラボ内を移動し、やっと見つけた裏口の扉を開ける。
扉の先ではまだ少し降る雨が、しゃらしゃらと芝を鳴らしていた。
ふう、とひと息吐き出すと、やっと呼吸が出来た気がして私はその場にしゃがみ込んだ。
ぱらぱらと雨が傘に当たる音に、視線を上げる。
鈍色の空を背景に、真っ赤な傘が目についた。
真っ赤な傘。太陽より明るい金色の髪。ふわりと漂うのは嗅ぎなれた煙草のにおい。
見間違えるはずがなかった。
琥珀色の瞳が真っ直ぐにこちらを見つめている。
「……スタン?」
傘を肩で挟むと、手早くブーツの裏で煙草をもみ消し、吸い殻を携帯用の灰皿に入れた。
大股で近寄ってきて、私と視線を合わせるようにしゃがみ込む。
「ダーリン、帰んぜ」
「……なんで?」
「なんでって、回収。ゼノから連絡きた」
普段の会話からは想像できないが、上司は存外お節介なようだった。
「……なんで」
頭が痛いせいか、それとも別の理由か。言葉がうまく続かなかった。
「アンタ、こういう天気ダメじゃんよ」
鼻の奥がツンとして、慌てて視線をアスファルトに向ける。
「……知ってたの?」
「知らねえ方がおかしいだろ」
腕を捕まれ引き上げられた。
「……仕事残ってるし」
「アンタの仕事は家帰って寝る。そんだけ」
引き上げられたまま一度ぐっと抱きしめられ、背中をぽんと叩かれる。
「そっち車停めてあっから、歩ける?」
「うん」
「good」
「犬じゃない……」
ハハッとひと声笑って手を引かれる。
赤い傘が頭上でくるりと回った。
*
スタンリーが、手慣れた手つきで私の家の鍵を回す。
「日本の貧相な鍵にも慣れたもんだな」
「自分で言うんだ……」
「蹴破ったら一発だぜ?」
「やめて、勝手に治安悪くしないで……」
扉を押さえて、私を中へと促すと、即座に鍵をかける。
「何度見ても舐めきったドアガードだな」
「言われた通りちゃんと掛けてるよ?」
ギシギシとドアガードを揺らす。
「耐久性に難あり」
「……賃貸なんだから壊さないでよ」
スタンリーは編み上げられたブーツを片手で器用に脱ぐと、私のあとにつづいて部屋へと上がり込んでくる。
締め切っていたカーテンへ手を伸ばした瞬間、目の奥を突き抜けるような痛みに襲われ思わず動きが止まる。
「とりあえず寝ろ」
勝手知ったると言わんばかりに寝室のドアを開け払うと、私を中へと放り込もうとしてきた。
「待って待って、薬とか飲んでから…」
「全部用意してやんよ。アンタはまず寝る」
「えっ、場所とか」
「知ってる」
「……なん」
言い切る前に、膝の裏に腕が差し込まれ抱き上げられた。そのままベッドへと運ばれる。
「スタン!」
ぽすんとやわらかい音を立ててベッドへと降ろされたと思ったら、そのまま横たえられた。
「アンタ、自分じゃ分かんねえだろうけど、顔真っ白」
長い指が、クイッと私の顎を持ち上げる。
「頭痛どうなん?」
「……よくはない」
「ほらな」
スタンリーは、持ち上げていた顎をひと撫でして、薬を持ってくると言って立ち上がった。
寝室からスタンリーが消えたのを確認すると、よろよろと起き上がりベッドの端に腰掛ける。
朝適当に畳んで置いていたパジャマに着替えようとしたところで、寝室の入口から低い声が飛んできた。
「……寝ろって言ったろ」
「いや着替え……」
「あとでやってやんよ」
「……自分でできるし」
「……」
腕を組み、無言でこちらを睨んでくる。
「……ねます」
「ああ、それが正解だな」
返事に満足したスタンリーは、くるりと背を向け今度こそリビングの方へと消えていった。
せっかく看病してくれようとしているのだ。これ以上逆らったところで、どうせまた寝ろと言われるだろう。
小さく息を吐く。
気を紛らわせていた頭痛も、寝室についた時点で気付かぬふりも限界だった。
結局着替えることも出来ず力尽きて、ベッドに腰掛けたかたちのまま倒れ込んで眠ってしまった。
*
静かだった。先ほどまで居たラボとは違い、ほんの少し外の喧騒が聞こえる程度。
ああ、自分の家だ、そう思えると、張り詰めていたものが少しだけ緩んだ。
部屋は暗かった。遮光カーテンの隙間からはうっすら光が差し込んでいて、まだ外は明るい時間なんだと知る。
私の横に沿うように、スタンリーが寝転んでスマホを見ていた。
180cmを越えた成人男性と一緒では、セミダブル程度のベッドはかなり狭い。
でも、その狭さが今日はなぜか心地よかった。
「……薬飲める?」
目が覚めた気配に気付いたのか、スタンリーはスマホを横へと置いて、こちらを覗いてくる。
「寝て、だいぶマシになったから飲まなくても良いかも?」
「俺が聞いたのは、飲むか飲まないかじゃねえよ」
「どういうこと?」
「飲めるか、飲めないかって聞いた」
「飲むこと前提なんだ……」
「トーゼン」
勝ち誇ったように言い切られ、私は思わず苦笑した。自分で飲めるよ、とゆっくりと起き上がる。
スタンリーが差し出してきた薬を、口の中へと放り込み、少しぬるい水で流し込んだ。
「今何時?」
「16時くらいだな」
「あれ、けっこう寝てる……」
いいからまだ寝てな、と言われ再び横になる。
「変なポーズで寝てるし、着替えさせようとしたらぶっ叩いてくるし、アンタ、俺に恨みでもあんの?」
「えっ、ごめん??」
スタンリーは、クツクツと笑いながら、私の頬にかかった髪をそっと払う。
「雨止んだかんね。これで寝て、起きる頃には楽になんよ」
「うん」
ごろりとスタンリーも横になり、私の背中に手を添えた。
「背中なら良い?」
「……うん、頭じゃなきゃ平気」
「ok」
その返事を聞いて、大きな手のひらが背中を撫でる。
「私寝たら帰っちゃう?」
「んな薄情じゃねえよ。いいから寝な」
「……うん」
「good」
ゆっくりと背中を往復する手のひら。
「おやすみ、ダーリン」
撫でられるたびに、頭の痛みが少しずつ薄れていくような気がして、そっと意識を手放した。
2026/06/03