美しいもの

研究室の入り口付近の棚に一輪挿しが置かれていることに気付いたのは、つい最近のことだった。 「Dr.スイカ、これは君が?」 「ううん、ちがうんだよ。気が付いたらあったかなあ」 研究室まで立ち入れる人間は限られる。 ましてや、大変失礼な話かもしれないが、花を愛でるような人間がこの研究室内には居るように思えなかった。 毎朝違う花が生けてある、そうスイカは言っていた。 いつの間にか花があるとは思っていたが、流石に毎日違うというところまでは気付かなかった。 自分も大概、花を愛でるような人間ではないということだろう。 その日は、昨夜帰り際に仕掛けた自動装置の進捗状況が気になり、いくらか早い時間にラボへ到着した。 エレベーターを抜け研究室までの廊下を歩いていると、研究室の入り口に人影が見える。 (……誰だ?) その人影はカードキーをかざし、丁寧にパスコードを入力すると、ウィーンと音を立てて開いた扉の先へと消えていく。 性別は女性、身長体型ともに日本人の平均的なものだろう。 白衣は着ていないので研究員ではない。 カードキーを持ち、パスコードを入力出来る女性。思い当たる人間は数人居るが、あえて研究室には入らず、向かいの壁に寄りかかりながら入り口を見つめていた。 ほどなくして彼女は研究室から出てくる。──昨日生けてあった花を手に。 「……おお、その花」 「え?」 誰かと会うことは想定してなかったのだろう。声をかけた瞬間、ビクリと彼女の肩が上がる。 「……おはようございます、Dr.ゼノ」 「おはよう、君はたしか事務局の」 「……はい」 消え入りそうな声で返事をすると、彼女は俯いた。 「……すみません」 「なにがだい?」 「いえ、研究室に不法侵入して……」 事務局の人間は、備品の補充等があるため出入りは比較的自由にしてある。ただし、その部屋の人間が誰もいない状態の研究室に入ることは、情報漏洩や研究資材の紛失を防ぐためにも禁止していた。 たしかに彼女の言い分はその通りだろう。だが、不法侵入者というには、彼女が持ち出したものはいささか可憐すぎる。 「なるほど。毎朝花を生けていたのは君だったのか」 「……はい」 「理由を聞いても?」 叱責されると思っていたのだろう。彼女がおそるおそる顔を上げる。 「……綺麗でしたので……」 「綺麗?」 「花が……花が綺麗でしたので、あなたにも見ていただきたくて」 昨日までそこにいた花の茎を、彼女がぎゅっと握りしめる。 「僕に?」 「いつもお忙しそうにされていますので、ほんの少しでも、気持ちが安らげばと」 「それだけかい?」 「え?」 「規則を破るリスクを冒してまで、毎朝?」 彼女はしばらく黙り込み、手の中の花へ視線を落とした。 「……気付いて下さってるとは思ってもいませんでした。でも、綺麗なものを見つけると、あなたにも見ていただきたくなるんです」 矛盾している。 自分に見せるために花を生けながら、自分がそれに気付くことは期待していなかった。それでも彼女は、毎朝違う花を選び、ここへ足を運んでいたらしい。 実際、ゼノがその存在を意識したのはつい最近のことだ。毎日花が替わっていたことさえ、スイカに聞くまで知らなかった。 それならば、彼女は何のために続けていたのだろう。 「それでも、毎日?」 「……はい。私が勝手にしたかっただけですから」 見返りどころか、気付かれることすら望まずに。 理解し難い行動だった。 けれどその日から、研究室へ入るたび、ゼノは入り口の一輪挿しを見るようになった。 そして花を見るたびに、それを選んだ彼女のことを思い出した。 * 数日後。 昨日から降り続いた雨は、今朝はすっかり上がっている。アスファルトの水たまりを避けるようにラボの敷地に入る。 上がり始めた気温が、湿った空気を抱いて肌にまとわりついてくる。 日本での暮らしもすっかり慣れたつもりだが、ベタつくような空気だけは未だに慣れない。アメリカにいた頃の、もう少し乾いた空気が恋しくなった。 ふと、顔を上げると先日花を生けていた彼女が視界に入った。 入り口付近であれば問題ない、と不法侵入は不問にしたあの日から、相変わらず一輪挿しには花が生けてあった。  先日同様、皆が出勤してくるにはまだ早い時間。 濡れた芝で靴が濡れるのも厭わず、彼女は歩みを進めている。その先にあるのは、ラボの敷地内に設けられた実験圃場と温室だけだ。 彼女の目的に、少しばかり興味が湧いた。裏口のセキュリティ解除を取りやめ、彼女の後を追う。 露地の実験圃場には、色も種類も様々な花が咲き乱れていた。 内務を中心にしているため、屋外での研究にはさほど目を配っていなかったが、なかなかに大きく研究は進められているようだ。 「……あれ、Dr.ゼノ?」 芝を踏む音に気が付いた彼女が、振り返り微笑む。 「おはようございます。お早いですね」 「ああ」 「いつものお花は、ここから頂いてるんです」 種苗の確保目的ではない植物は、ある程度成長すれば廃棄となる。彼女はその廃棄前の花を摘んでは、あの場所に飾っていたようだった。 「こんなに綺麗なんです。廃棄されるのがもったいないくらい」 彼女は花の間にしゃがみ込み、ひとつひとつ確かめるように視線を巡らせている。 昨夜の雨は、花弁や葉の上にまだいくつもの雫を残していた。雲の切れ間から差し込んだ朝の陽光がそれを捉え、彼女が身じろぎするたび、あたりで小さな光が瞬く。 「今日は、どれにしようかな」 誰に聞かせるでもなく呟きながら、彼女が一輪の花へ手を伸ばす。 その横顔を見て、不意に先日の言葉を思い出した。 『綺麗なものを見つけると、あなたにも見ていただきたくなるんです』 あのときは理解し難いと思った。 見返りもなく、気付かれることすら望まず、ただ自分が見つけた美しいものを誰かにも見せたいという感情を。 「Dr.ゼノ、見てください」 けれど今、雫をまとった花々の中で微笑む彼女から、なぜか目を離すことができない。 「綺麗でしょう?」 ──なるほど。 「……ああ。実に美しいね」 あの日の彼女の言葉を、ようやく理解した気がした。美しいものを見つければ、誰かにも見せたくなる。 ただひとつ、彼女と違うところがあるとすれば。 この美しい光景だけは、誰かと分かち合いたいとは思えなかった。 2026/7/19
お題 花・雫・陽光

▼top