記憶をなくしたきみと、もう一度恋をした

<1> 「おじゃま、します」 「テメーの家だぞ」 「……」 玄関扉を手で抑え中へ促すと、恐る恐るといった様子で香穂が入り、靴を脱いだ。 香穂が、駅で転んで救急車で運ばれたと連絡を受け、慌てて病院へ駆け込んだのが数時間前のこと。 ケガ自体は特になく、たんこぶが出来た程度なことに安堵する。 しかし、数値や検査に問題はないが、なぜか記憶が飛んでいる。と説明を受け、自宅で様子を見るようにと連れて帰ってきて今に至る。 千空はソファーにドカリと座り込み、大きく息を吐いた。 ちらりと香穂を見ると、どうしていいのかわからないらしく、リビングの入口に突っ立っている。 座れよ、と顎をしゃくると慌てたようにその場に正座した。 「いや、隣座れって意味だったんだが…」 「あっえっと、すみません」 結局すぐに立ち上がったものの、ソファーではなくその横の床にちんまりと座り出し、千空はまたため息をついた。 仕方なくソファーから床へ降り、香穂の目の前で胡座をかく。 「何が分かって、何が分かんねえか、わかるか?」 「いや、えっと、なにがなんだか…」 「だろうな」 「……あなたが千空さんって名前なのは聞きました」 「千空」 「え?」 「千空だ。敬称付けんな」 「千空……さん……」 「……そのうち敬称外せ」 「……はい……」 いつもの香穂とはまったく違う、蚊の鳴くような声だった。 「あの……私、千空さんと夫婦だって聞いたんですけど」 千空は無言で首元からネックレスを外し香穂の手の上に置く。 「テメーの左手のと同じもんだ。ダイヤはねえがな」 香穂が自分の左手へ視線を落とす。 「だから、遠慮すんな」 薬指には、千空に渡されたものと同じ銀色の指輪が輝いていた。 「……私、本当にここに住んでたんですよね……なんか、全部知らない場所みたいで……」 手の中の指輪は千空の熱を吸ってほのかに温かい。 「あの、質問とかいいですか?」 「あァ、何でも答えてやっから、わかんねえこと言ってみろ」 「……じゃあ、遠慮なく……」 一拍置いて、千空の指輪を指でなぞりながら、香穂が口を開けた。 「あの、ドクターストーンってなんですか?」 「千空さんが説明聞きに呼ばれて、戻ってくるの待ってる間、看護師さんたちが千空さんのこと、ドクターストーンって言ってたんです」 「なんでドクター?お医者さん?」 「なんでストーン?石神だから?」 「有名人……なんですよね?なんで私と結婚してるの?」 千空は一瞬言葉を止める。 「ハッ、そういうとこは変わんねえのかよ」 堪えきれないみたいに小さく笑うと、思わず手が伸びた。 「そういうところ?」 くしゃりと香穂の頭を撫でる。 「??わかんないんですけど??」 「……そういうところだ」 眉を寄せぽかんとしたその反応があまりにもいつもの香穂で、千空の表情から、ほんのすこしだけ力が抜けた。 「……まず、ドクターの件だが、俺は医者じゃねえ。科学者だ」 「かがくしゃ」 「Dr.STONEは周りが勝手に呼んでるだけだ。有名人かどうかは知らねえが、まあ復活読本読んだ人間は俺のこと知ってっかもな」 「復活読本?」 「……もしかして石化についても覚えてねえのか?」 「石化??」 「石化については……いや、今日は頭パンクすんだろ」 時計はすでに深夜といえる時間を回っている。 今日は風呂入ってもう寝ろ。そう言って香穂を風呂へと押し込んだ。 自分の名前や生活の細部は覚えているくせに、石化と、千空のことだけがごっそりと抜け落ちている。 病院での説明と照らし合わせても、あまりに奇妙で都合の良い記憶喪失だ。 (俺に関する記憶だけ都合よく吹っ飛ぶなんざ、笑えねえ) 香穂の着替えを用意しながら、千空はまたひとつ大きなためいきをついた。 next>>>

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