記憶をなくしたきみと、もう一度恋をした
<2>
翌朝、千空はリビングのソファーで目を覚ました。
『テメーは寝室で寝ろ。俺はソファーで寝る』
昨夜、千空の言葉に『ありがとうございます』とだけ言って、すんなり寝室へと向かった香穂。
千空は、それでも夜中に眠れないと言って起きてくるのではないかと、寝室の扉を気にしながら横になっていた。
だが結局、一晩中寝室の扉が開くことはなかった。
(……ちゃんと寝たのか?)
眠れているならそれで良し、そう思っていた矢先にカチャリと音を立てて寝室の扉が開く。
いつもであれば、ぺたぺた歩きながらねむいだのおはよーだのとやかましく音を立てて出てくる香穂だったが、今日は足音を立てず、そっと出てくる。
ソファーに寝転ぶ千空を見つけ、香穂は一瞬ビクリと肩を上げた。
「あっ、おはようございます。ベッドお借りしました……」
千空がちらりと香穂を見る。
目はしっかり充血し、ぱちぱちとまばたきが多い。どう見ても寝不足の目をしている。
「……眠れたのか?」
「えっ、あ、もうぐっすり……?」
「その、いかにも寝不足です、って目でぐっすりか?」
「いや、その、枕が変わると眠れないタイプ?なのかも?です」
(テメーの枕だわ)
千空はそう言いたい気持ちをぐっと喉の奥に飲み込んだ。
朝食は簡単にシリアルで済ませる。
さすがの千空もやる気は起きなかった。
「手伝います」
「手伝うようなもんじゃねえわ。シリアル出して牛乳ぶっかけて終わりだ」
「じゃあ、あの、スプーンとか出します」
香穂は迷うことなく、カトラリーが収納された引き出しに手を掛ける。
「……」
「……千空さんは深めのスプーンですか?」
「……あァ」
(俺のことは抜けてるのに、生活に関する記憶はあるってなんなんだよ)
家に入るのもソファーに座るのも躊躇うくせに、カトラリーの場所も、千空が好むスプーンの形も、身体が迷うことなく記憶している。
なのにこっちを見る目だけが、初対面の他人を見る目だった。
*
「千空、オメーのスマホ、今日はやけに静かだな。香穂とケンカでもしたのか?」
「……」
事情を知らないクロムが、笑いながら千空の背中を叩いてきた。
『テメーの職場には休みの連絡をしとく。とりあえず記憶が戻るまでは何があるかわかんねえから家に居ろ』
『……千空さんは、お仕事ですか?』
『あァ、ラボな。家からすぐそこだ。屋上からも見える』
『はい』
なにかあれば連絡しろ。そう言って香穂のスマホを香穂本人に渡した。
「ケンカ程度なら良かったんだがな」
「お、なんだ、千空が怒らしたのか?」
「ちげぇわ!」
相変わらずメッセージはなく、結局千空は自分からメッセージを送信する。
『なにしてる』
いつもならすぐに既読がつく。
あれやってる、ここにいる、と矢継ぎ早に返信が来るはずなのに、何分経っても既読はつかず、画面は無反応だ。
『おい』
追い打ちをかけても既読はつかない。
痺れを切らして通話ボタンを押すと、すぐに香穂の声がした。
『……はい……?』
「電話はすぐ取るのにメッセは無視かよ」
『見てましたよ』
「じゃなんで返信しねえ」
パスコードがわからなくてスマホのロックを解除できなかった。そう香穂に言われて千空は頭を殴られたような衝撃を受けた。
千空に関する記憶の抜け。
「……1009だ」
『はい?』
「……変わってなければだがな。そのスマホのパスコードは1009。センクー」
『……あ、開きました!……あれっホームの壁紙も千空さんだ!?すご!!』
少し前に着たスーツ姿を、香穂が興奮しながら撮っていたことを思い出す。
『やば、かっこよ……壁紙にしよ……』
『本物目の前にいて壁紙にするんかよ』
『本物は本物!写真は写真!』
『へーへー、お好きにどうぞ』
『千空かっこよ……すき……』
画面を眺めてニヤニヤ笑う香穂に呆れたあの日から、わずか数日。
『千空さん』
電話越しに、記憶のない香穂が呼ぶ。
「あ?」
『このスーツ姿、かっこいいですね』
その一言が、胸に刺さった。
*
帰宅すると、空腹を誘う香りがした。
「あ、おかえりなさい」
「……メシ作ったのか」
「すみません、冷蔵庫のものかってに使いました」
「べつに構わねえ。どうせ遅かれ早かれ食うもんだ」
白衣をソファーに投げ、ネクタイを緩める。じっと見る香穂の視線に気付きジトっとした目で返した。
「……」
「なんだ?」
「……あ、いや、なんか、目が離せなくて」
パッと視線を外す香穂。
「あの、お口に合うか分かりませんけど…」
話をそらすようにテーブルに料理を並べていった。
料理は美味かった。
味付けも、ほぼ香穂だった。
それもそうだ、間違いなく本人なのだ。距離感が違って、口調が敬語なだけの、本人。
箸をおいた香穂がじっとこちらを見つめ、恐る恐る口を開いた。
「あの、昨日言ってた石化?なんですけど……」
「あーそういや後回しにしてたな」
「スマホのロック解除できたので、検索しました……ので、なんとなくは……」
「聞きてえことありそうな口ぶりだな」
「いいんですか?」
「構わねえ」
香穂が視線を下げ、左手の指輪に触れる。
「昨日も聞きましたけど、なんでDr.STONEとまで呼ばれてる千空さんが、私と結婚してるんですか?」
「んなもん、テメーのバグ埋められんのは俺だけだからだろ」
「バグ?」
「昨夜、眠れなかっただろ」
「あ、はい、でも枕が違うから…」
「テメーが毎日使ってた枕だぞ。記憶喪失したからって枕の使用感まで違うわけじゃねえだろ」
「……それも、そうですね」
「テメーと俺は幼なじみだ。7歳からのな」
「それがなんで眠れないに?」
「テメーは極度の不眠症で、俺に7歳から寝かしつけられてる」
「……え??」
「ついでに、不眠が祟るとアホほど高え熱を出す。それもだいたい俺がデバッグしてきた」
「……は???」
不眠のこと、オーバーヒートのこと。
そして、石化のこと。
少しして、じゃあ、と口を開く。
「3700年間も石なのに、どうやって人間に戻ったんですか?」
「ナイタール液掛ければ復活できる」
「でもそのナイタール液?に気付いた最初の人は?」
「……俺だな。石化は脳みそぶん回すと解除出来るんだが、そこに至るまでの3700年間、延々と秒数数えて自力で復活した」
「は??秒数???……え、じゃあ、私は?」
「俺が居なくて眠れねえから、3700年起きてた」
「寝れなくて3700年起きてた?えっまってまって?それで??」
「俺のしばらくあとに自力復活した」
「不眠症どころじゃなくないですか……」
「まあ結果的に脳みそ回し続けることになってたな」
香穂がテーブルに突っ伏す。
「お、重い……重すぎる」
一気に押し付けられた情報をどうにか説明を飲み込もうとしているようだった。
「……ファンタジーすぎる…というか、私、千空さんに依存しすぎてません?」
「一般的に見れば、そうかもな。でも俺は依存されてるとは思ってねえ」
「……迷惑すぎません?」
「ハッ、記憶のある方のテメーも、おんなじこと言ってたな」
香穂が、迷惑だなんて思ったことなんて、一度もない。
自分が好き好んで世話してるだけ。
「……これが、なんで結婚?」
千空が黙る。
「……結婚は……片方だけじゃ成り立たねえだろ」
千空が、香穂から視線を外した。
「……えっ、まって、照れてます?」
「……」
「うっそ!ほんとに照れてる!!てっきり私が押して押して結婚したのかと思ってたのに!えっ、私だけじゃなかったんですか!?」
「……」
「きゃー!すご!記憶ある方の私すご!!千空さん完璧に落としてる!!これは破壊力ある!!」
「テメーは!!記憶あっても無くてもうるせぇな!!」
少し乱暴に食べ終えた食器を持って席を立つ。
少しだけ、いつもの香穂との空気が戻った気がした。
「あの、千空さん。夫婦、なんですよね?一緒寝なくて良いんですか?」
一度寝室に入ったはずの香穂が、リビングに戻ってきた。
「……テメーが『千空さん』なんて言うからだろ。警戒心丸出しのクセに、一緒寝るとか出来んのかよ」
「……でも」
「でも、なんだ」
「……なんか、ベッドが広くて」
ベッドが広い、なんかさむい、一人に飽きた。寂しいクセに寂しいと言わない香穂の癖が透けて見えて、言葉に詰まった。
「しゃーねえな」
「ベッド広いんで、半分どうぞ……」
「……もともと俺のベッドでもあるんだが?」
「あ、そうでした、お借りしてます」
境界線が見事に引かれたような距離で並んで、その日は寝た。
昨夜の寝不足が効いているのか、横になってほどなくして香穂はすやすやと寝息を立てている。
こちらに背を向けて、ベッドの端ぎりぎりで眠っている。
それなのに呼吸だけはいつもと変わらない。
──妙な気持ちだった。
千空はそっと起き上がると、香穂の髪に指を差し込み、大きく撫でる。
自分の知る香穂ではない。だが間違いなく香穂だ。
早く戻ってほしいと思う。それなのに、今日の香穂を見ていると、妙な気持ちになる。
「……ったく」
小さく吐き捨てながら、千空はゆっくりと髪を撫で続けた。
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