記憶をなくしたきみと、もう一度恋をした

<3> 千空は無意識に横へ手を伸ばす。 いつもなら触れる柔らかい感触、温もり、どれにも触れられず飛び起きた。 (……居ねえ) まだ自分のアラームが鳴るより遥かに早い。 香穂が起きているはずのない時間だった。 千空は慌てて寝室を飛び出す。 しかし焦る千空とは逆に、香穂はのんびりとシンク横のハイチェアへ腰掛け、コーヒーを啜っていた。 お気に入りのマグカップ。 ちょっと腰掛けるのにあると良いよね、と買ったお気に入りのハイチェア。 記憶がないとは思えないほど、いつも通りの朝。 「千空さん。おはようございます」 しかし通常ではない呼びかけに、千空は小さく、あァ、と返すのみだった。 朝食は香穂がつくった。 少しチーズの入ったスクランブルエッグ。 ボイルしたウインナー、ブロッコリー、溶かすだけのポタージュスープ。 少し厚めのトースト。 『みてみて千空!ホテルモーニングっぽくない!?』 香穂のお気に入りメニューだ。 「千空さん、私と幼なじみだって言ってましたけど、私のどこが好きなんですか?」 朝食を食べながら、香穂が投げかけてきた。 「はァ?」 「顔?性格?……あ、もしかして身体とか?」 「はァ?」 思わずトーストのパンくずが飛び散り、千空は手でかき集めた。 「朝から何言ってんだテメーは」 「だって千空さん、絶対、記憶なくなる前の私にどこが好きとか言ってないですよね?」 「まだ会って3日ですけど、今の私ですらなんとなく分かっちゃいますよ」 「言わなくてもわかるだろう、とか思ってるんですよね?」 「いや、下手したら好きだとかも言ってないんじゃ?」 「……」 矢継ぎ早に飛んでくる質問なのか、事実なのか、すべてが図星の千空は何も返せない。 「あーー!黙り込んだ!やっぱり!!駄目ですよ!ちゃんと言わなきゃ通じないですって!!」 やーやーと騒がしい香穂を無視して、千空は空いた皿を下げるために席を立つしかなかった。 * 「ここがラボ……」 白を基調とした新しい建物を、千空の後に続きながら、香穂は物珍しそうに眺めていた。 「そういや、初か」 「そりゃ、そうですね」 『多少の刺激になるかもしれねえ……付いてこい』 そう言って連れてこられた先は、千空のラボだった。 「いや、テメーもだが、記憶のある方も来たことねえな」 「え、そうなんですか?」 「あァ、夫の職場は覗かねえ主義だとよ」 千空の言葉に、思わず立ち止まる。 「良かったんですか?……私のこと連れてきて……」 千空も立ち止まって、肩越しに振り返った。 「俺にはそんな主義ねえからな。テメー連れてくるのに許可なんざ要らねえ」 「……でも、」 「おー!千空!」 言いかけた言葉はクロムによって遮られた。 「誰かと思ったら香穂か!ラボ来るなんて珍しいな!!」 千空が小声で、クロムだ、と告げる。 「お、おはよう、クロム、くん?」 「おう!おはよ!!!」 「……」 「なんか静かだな?」 クロムが香穂の顔を覗き込もうとして、千空が香穂とクロムの間に滑り込んだ。 「寝起きで起動しきれてねえだけだ。いつものことだろ」 「あー、そう言われりゃそうか」 「ほら、さっさと行くぞ」 そう言ってクロムを促し先導させる。 「記憶喪失の件は誰にも言ってねえ。今日は余計なこと喋んなくていいからニコニコだけしとけ」 「それで通じるんですが?」 「大丈夫だ。テメーが笑ってりゃ多少黙ってても疑問に思わねえ」 「そんなもんなんですか?」 「そんなもんだ」 ふたりでクロムの背中を追った。 「あーー!香穂だ!!ひさしぶりなんだよ!!」 千空が、あれはスイカ、とだけ言うとスッと離れる。 「おはよう、スイカ?ちゃん?」 「おはようなんだよー!」 「香穂がラボ来るとかよ!珍しすぎんだよな!いっや、珍しいどころか初じゃねえか!?」 「そうだよ!!初めてだよ!うれしいなあ!」 研究室内ではすでに作業を始めていたスイカに、クロムが合流する。 「香穂の差し入れお菓子、いつもありがとうなんだよ!たまにはラボにも来てほしいのに…」 「この間の差し入れカップケーキなんて、ジョエルが俺はいらねえとか言いながらめっちゃ食ってんだぜ!」 言われた通りにこにこと笑うだけでやり過ごしている香穂に、とくに疑問を持つ様子もなくスイカとクロムはあれこれ話しかけてくる。 (へえ……そんなことやってるんだ) まるで他人の話を聞いているみたいだった。 香穂は千空が用意したパイプ椅子に腰掛け、ただ静かに耳を傾けていた。 スッ、と香穂の目の前に紙コップが差し出される。 「ラボに来るとは、どういう風の吹き回しかな」 「え?」 顔を上げると、いつの間にかクロムもスイカもおらず、見知らぬ男が立っていた。 「……そいつはゼノだ」 千空がそう言った。 「おお、千空。改めての紹介ありがとう。だが彼女と僕はとうに既知の仲でね」 「……んなこと知ってる」 香穂は差し出された紙コップを受け取り、まだ熱いコーヒーをゆっくり啜った。 「……なるほど、部分的な記憶喪失か」 ゼノがちらりと、千空の腰にぶら下げられた機械のようなカプセルを見る。 「外傷的なものであれば、最適な解決法があるだろう?」 視線に気付いた千空が、手で腰のそれを遮った。 「使わねえ」 「おお、それは残念」 (また、だ) (みんな、私の知らない話をしてる) 頭上で繰り広げられるふたりの会話について行けず、香穂はただコーヒーを啜ることしか出来なかった。 いくらかの時間が過ぎ、手持ち無沙汰そうな香穂を気にしたのか、千空がひとつ仕事を投げてくる。 同じフロア内の別デスクで、事務作業をしている研究員の手伝いをしろ、ということだった。 「糊付けて貼るくらい出来んだろ」 単純作業ならば問題ないと自身で判断し、香穂は見知らぬ研究員の正面に座り糊付け作業を始めた。 しばらく無言で作業していたが、ふと正面の研究員の視線を感じ、香穂が顔を上げる。 研究員は目が合うとニコっと笑いったかと思うと喋りだした。 「あの、Dr.石神の奥様だって伺ったんですけど……」 「……そう、らしいですね」 「いやあ!お会いできて嬉しいです!噂はかねがね……」 噂とは?と思う間もなく研究員が続ける。 「Dr.と一緒に世界中駆け回られてたんですよね?」 「はあ、」 するとその横の研究員も喜々として参加してきた。 「奥様から着信があると、Dr.ちょっとテンション上がってるよな!」 「そうそう!やる気に満ちるというか!」 ノッてきた研究員に苦笑しつつ、手元の作業を続ける。 「奥様用の着信音があるんで、ここのフロアじゃみんな分かるんですよ」 ぴたりと、香穂の手が止まった。 「……私、専用なんですか?」 「え?」 「あ、いえ、それは知らなかったなあ、と……」 「自分はかけるほうですもんね!」 「……」 (みんなが知っている、私だけが知らない) ラボで聞いた話が、帰り道になっても頭から離れなかった。 隣を歩く千空を見る。 知らないことばかりなのに、隣にいることだけは不思議と自然だった。 * 帰宅してからの香穂は、始終無言だった。 何度か千空が声をかけるが、適当な相槌が返ってくるのみで、千空もあえて何も言わず様子を見ていた。 夕飯を食べ終え、風呂へと促す。 入れ替わりで千空が風呂へ行き、リビングへ戻ると、香穂は床で膝を抱えて座っていた。 「……ラボで、なんかあったのか」 香穂が千空を見上げる。 「なにも、ないです……なにも」 「何もねえって、態度じゃねえだろ」 膝の間に顔を埋める。 「……なにも、ないんです。知ってる話、なにもなかった……」 「そりゃ、」 「千空さんの言いたいことはわかります……わかるんですけど……」 千空は香穂の目の前で腰を下ろした。 「……たぶん、私は私のはずなんです。でも、私は“千空さんの奥さんの私”じゃない」 「みなさんも千空さんも、千空さんの奥さんの私を見てる……」 「今の私には何もないんです」 「みなさんが知ってる私は、ちゃんとそこに居るのに……今ここにいる私は、本来の私じゃない気がするんです……」 ラボで聞いた話も、専用の着信音も、壁紙も。 どれも確かに"自分"の話なのに、まるで知らない誰かの思い出みたいだった。 「ちゃんと千空さんに、奥さんの私、返さなくちゃ……」 香穂は、自分の左手の指輪をそっと撫でた。 「でも……なんか、寂しいな」 掠れた声で笑う。 「やっと、ちゃんと話せるようになった気がしたのに」 千空は何も言わなかった。 「千空さん、奥さんの私のこと、ちゃんと大事にしてくださいね」 ぽろぽろと涙が零れる。 「……たぶん奥さんの私、千空さんのこと、ほんとに大好きだと思う」 「不思議ですよね。私なんて、数日前は全然千空さんのこと知らなかったのに」 「……でも私、今とっても千空さんのこと、好きだなって思います……」 静かに泣き出した香穂の頭へ、千空の手がそっと触れた。 「……知ってる」 低い声が落ちる。 「テメーはテメーだろ。別モンじゃねぇわ」 指先が、髪をゆっくり梳いていく。 「記憶ある香穂も、記憶ねぇ香穂も、どっちも俺の幼なじみで、嫁だ」 「……それってハーレム思考ですか?」 小さく笑う。 「アホか」 少しだけ間を置いて、香穂は遠慮がちに口を開いた。 「……今日、くっついて寝てもいいですか」 千空は一瞬だけ目を細め、それから鼻を鳴らす。 「好きにしろ」 「……はい」 香穂は涙を拭いながら、笑った。 next>>>

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