その手を払いのけた日

<2> 船室へ飛び込むと、隅で小さく丸まった香穂が、荒い息を繰り返していた。 頬は異常なくらい赤い。呼吸も速い。目元には濃い隈。 見ただけでわかる、完全なオーバーヒートだった。 「……っ」 千空の喉が詰まる。こんな状態になるまで放置した。 いや、放置したんじゃない。拒絶されていた。 でも、それでも、ここまで悪化する前に、どうにか出来たはずだった。 「香穂」 床に膝をつき、いつものように熱を測ろうと、首筋へ手を伸ばす。 その瞬間。 パシッ、という音とともに、千空の手に衝撃が走る。 「……」 千空の手が、香穂によって払い除けられた。 千空は、何が起きたのかわからずほんの一瞬固まった。 高熱で潤んだ目が、真っ直ぐ千空を睨んでいる。 「……構わなくていい」 聞き取れないほど小さな声だったが、拒絶の意思だけははっきりと分かった。 「……いつもの、だから」 「寝てれば治る」 「おい、そんな場合じゃ――」 「そんな場合?」 ぴくり、と香穂の眉が動く。 「……なに、それ」 熱に浮かされた声なのに、不思議なくらい冷たかった。 「誰に、言ってんの?」 香穂が身体を起こす。 「何言って――」 「何言ってんの、はそっちでしょ」 苦しそうに呼吸が乱れるが、香穂は止まらない。 「ルーナさんの彼氏なんでしょ?」 その言葉に、空気が止まった。 様子を見守っていたコハクも、ゲンも、クロムも、近くに居た全員が息を呑む。 「そっち優先しなよ」 香穂の声が震える。 怒りなのか、熱なのか、悲しみなのか、もう本人にもわかっていないみたいだった。 「わたしたち、ただの幼なじみでしょ?関係ないじゃん」 「……香穂」 「聞きたくない」 即座に返される。 「死にかけてたじゃん……っ」 「わたしあの時、どんな気持ちで船降りたと思ってるの」 香穂の掠れた声に、千空の指先が強張る。 「なのに、彼氏だ彼女だって」 「そんな話してたんでしょ……?」 熱で肩が震えて、呼吸も浅い。 それでも、香穂は止まれなかった。 「合理的だから?」 「そんなの、わかってるよ」 「でもっ……!」 涙が滲み、ぎゅっと服の端を握り締める。 「死ぬかもしれなかったじゃん……!!」 その言葉が、千空の胸の一番深いところに突き刺さった。 「……っ」 香穂の手が、小刻みに震えている。 怒り、恐怖、不安。全部が限界だった。 千空は反射的に、その手を掴む。 「離して」 香穂が振り払おうともがいたが、千空はその手を離さなかった。 何を言えば正解なのかわからない。 どんな説明をしたところで、今の香穂には届かないだろう。 ただ、このまま離れるのだけは駄目だと、本能みたいに理解した。 「離さねえ」 強く握り返した香穂の手は、驚くほど冷たかった。 熱であれだけ呼吸が乱れているのに、指先だけは氷みたいだった。 「……わたし」 香穂の唇が震える。 「わたし、なんのラベルもないじゃん……ただの幼なじみ、だけなの!」 「……違ぇ」 「そうだよ!!」 堰を切ったみたいに叫ぶ。 「ひとりで平気になろうって、頑張ってたのに!!」 「千空なしで生きようって……頑張ってたのに……っ」 その言葉に、千空の中で何かが音を立てて崩れた。 「……悪かった」 ぽつり、と千空が言う。 そして、すっと、香穂の手を離した次の瞬間、床へ両手をついた。 「……え」 コハクが目を見開き、ゲンが息を呑む。 千空はそのまま、迷いなく額を床につけ土下座した。 「悪かった」 低い声が、船室に落ちる。 「今回は全面的に俺が悪い」 誰も動けなかった。 あの石神千空が、わざとではなく、冗談でもなく、真剣に頭を下げているのだ。 「心配かけた」 額を床につけたまま続ける。 「だから頼む」 声が、少し掠れる。 「解熱させてくれ」 「あと、寝てくれ」 香穂の呼吸が止まる。 「……ちょ、千空」 信じられないものを見る顔だった。 「こんなんで気が晴れねぇのはわかってる」 千空は顔を上げない。 「でも、俺にはこれしか浮かばねえ」 握り締めた拳が震えていた。 「テメーのエラー放置してんのが、耐えられねえんだよ」 「……ルーナの件は」 千空が静かに続ける。 「ルーナがああ言えば、あいつに付いてくるヤツがいるってわかってたから受理した」 「それだけだ」 「……」 「テメーがここまで壊れるのも、キレるのも、想定してなかった」 香穂が唇を噛む。 「……キレてない」 「キレてんだよ」 即答した千空が、少しだけ顔を上げた。 「自分でわかってねえのか」 赤い瞳が、真っ直ぐ香穂を見る。 「暗号通信聞いてから、ずっとおかしかったんだろ?」 「……」 「腹ん中ぐちゃぐちゃになって」 「俺と話したくなくなって」 「……怒ってんだろ」 香穂の目から、ぽろっと涙が落ちる。 「……怒ってる、かも」 「だろうな」 小さく息を吐く千空。 そのまま、また額を下げようとしたが香穂のもういい、という言葉に止められた。 「それやめて。顔見えないの、やだ」 千空が、ぴたりと止まる。 「……怒ってんじゃねぇのかよ」 「怒ってる……」 涙声のまま、香穂が言う。 「でも……もう、やだ」 もう、限界だ。そう言わんばかりに、ぐしゃ、と香穂の顔が歪み、それを見た千空が、床から身体を起こした。 「泣いていい?」 香穂の言葉に、千空の表情がようやく少しだけ緩んだ。 「あァ……泣けよ」 静かな声だった。 香穂はその声を合図に、千空へしがみつきぼろぼろと大粒の涙をこぼして泣いた。 「千空死んじゃうかと思った……っ」 「ばか……っ」 香穂の声が震えている。 千空は何も言わず、その身体を抱き留めた。 「悪かった」 低い声が返る。 「ほんとに、ばか……!」 熱のせいで、力なんてほとんど入っていない香穂の拳が、何度も千空の肩を叩いた。 強くなんてない力だったが、狙撃され傷付いた腹に痛みが走る。 それでも千空は、一発ごとに黙って受け止めた。 「千空なしで生きようと思ったのに……っ」 その言葉に、千空の腕がぴくりと止まった。 「寝れないし……」 「千空と喋れないし……」 怒りも、不安も、寂しさも、全部。 感情も、顔も、涙でぐちゃぐちゃだった。 「オーバーヒートするし……っ」 「……あァ」 千空の声が、少し掠れる。 「悪かった」 また同じ言葉だったが、今度は謝罪というより、縋るみたいだった。 「ばか……」 「千空の、大バカ……」 「そうだな」 否定もせず、いつもみたいに言い返しもせず。 ただ、抱き締める力だけが少し強くなる。 「……っ、ぅ……」 香穂の呼吸が乱れ、張り詰めていたものが、一気に切れていく。 泣いて、泣いて、泣き疲れ、やがて香穂の身体から力が抜けた。 「……香穂?」 返事がない。 千空が顔を覗き込むと、完全に電池が切れていた。 熱でふらついたまま、泣きながら安心して、そのまま意識を落としたらしい。 「……ハッ」 千空が小さく息を吐く。 「ようやく寝やがった……」 その声音には、呆れと安堵が半分ずつ混ざっていた。 船室の入口では、コハクたちがなんとも言えない顔で固まっていた。 コハクは腕を組み、クロムは完全に気まずそうに視線を泳がせ、ゲンは、いや〜と言わんばかりに苦笑している。 「……コハク」 千空が香穂を抱え直しながら言う。 「担いで物置まで連れてってくれ」 「もういいのか?」 「あァ。とりあえず、この熱下げねぇと」 そう言って、千空はようやく香穂の首へ触れた。 先ほど振り払われたそこは、まだ熱い。けれど、呼吸はさっきより少し落ち着いていた。 「……起きたら、またキレられんだろうがな」 小さくぼやいたその口元は、ほんの少しだけ緩んでいた。 「……まさか千空ちゃんが土下座するとはねぇ」 「うるせえ」 隣で肩を竦めるゲンに、即答する。 「……あれしかねえだろ」 「まあ、あれしかないよね」 軽口を叩きながらも、ゲンの顔にはどこか安心した色が浮かんでいた。 司帝国から石神村へ向かったあの時みたいに、香穂がまた限界を超えて壊れるんじゃないかと。今回ばかりは、本気で危ないと思っていたのだ。 だからこそ、今、千空の腕の中で完全に気を失っているその姿に、ゲンもようやく少しだけ安堵する。 コハクが、くったりと千空に寄りかかる香穂を覗き込み、静かに口を開く。 「……しかし、知ってはいたが」 その声に皆の視線が向いた。 「お前たち、本当に面倒くさいな」 一拍置いたその直後、クロムが吹き出し、ゲンも耐えきれず笑い出す。 「ほんっとそれ!!」 「うっせえ」 千空は心底面倒そうに舌打ちしたが、香穂を抱き締める腕だけは、最後まで一度も離さなかった。 ●エピローグ 目を覚ました瞬間、最初に視界へ入ってきたのは、見慣れた脚だった。 ぼんやりした頭のまま視線を動かす。 簡易寝床のすぐ横で、床へ胡座をかいた千空が、膝の上で資料を広げている。 物置を無理やり寝室代わりにしたせいで、寝床は毛布を重ねただけの簡素なものだったけれど、不思議と寒くはなかった。 千空が居る。 その事実だけで、胸の奥のざわつきが静かに凪いでいく。 「……おはよ……」 掠れた小さな声に、千空が手元の資料からこちらへ視線を向ける。 「あァ。起きたか」 いつもの声、いつもの顔。 それを見た瞬間、昨日のことが一気に脳裏へ押し寄せる。 怒鳴ったこと、泣いたこと、手を払いのけたこと、土下座させたこと。 全部、ぜんぶ思い返すだけで、胃の辺りがきゅっと縮こまった。 「……うん……」 気まずさを誤魔化すように視線を逸らすと、千空が何か言いかけるみたいに少しだけ口を開いた。 そのまま、そっと手が伸びてくる。 けれど、首筋に触れる寸前で、ぴたりと止まった。 ――たぶん、熱を測ろうとしてる。 昨日、自分がその手を払いのけたことを思い出して、胸の奥がちくりと痛んだ。 思わず視線を上げる。 千空も、ほんの少しだけ迷うみたいにこちらを見ていた。 それからようやく、確かめるみたいにゆっくり首筋へ触れる。 ひやりとした手のひら。 「平熱。問題なし」 熱を測るいつもの仕草。 昨日あれだけ拒絶したのに、いつもみたいに触れてくれることが、少しだけ嬉しかった。 「……なんか、私のほうが問題だった気がするんだけど……」 千空が片眉を上げる。 「なにが」 「……昨日……」 その単語だけで十分伝わったらしい。 「あァ」 短く返して、千空は特に責める様子もなく資料を端に寄せた。 その反応が、余計に申し訳なくなる。 「……ごめんね?」 小さく言うと、千空は呆れたように息を吐いた。 「昨日、俺が謝ったろ。テメーはごめん、じゃねえわ」 「うん……でも、ごめんね?」 千空が一瞬だけ黙ってから、困ったみたいに口元を歪めた。 ――あ、これ。泣きそうなのを誤魔化してる顔だ。 気付いた瞬間、胸の奥がじんわり熱くなる。 「……ったく」 大きな手が、ぐしゃりと頭を撫でた。 乱暴なのに優しい、いつもの撫で方。 「もういいのか」 「ん?」 「言いたいこと、全部出したのか」 昨日、あれだけ泣いて怒鳴ってもまだ、自分の中に整理しきれていない感情がある気がした。 「うーん……たぶん?」 「なんだそれ」 呆れた声がした次の瞬間、どちらからともなく吹き出した。 狭い物置の中に、小さな笑い声が重なる。 あんな空気だったのが嘘みたいに、少しずつ呼吸が楽になっていく。 笑いながら、香穂は毛布の中から千空を見上げた。 「……仲直り、だよね?」 千空がほんの少し目を細める。 「……そうだな」 その返事と同時に、もう一度ぐしゃっと頭を撫でられた。 昨日、払いのけた手。 でも今は、その温度がひどく安心する。 香穂は目を閉じて、されるがまま千空の手に頭を預けた。 物置の外では、誰かの話し声と、船の軋む音が小さく聞こえてくる。 世界はまだ何も終わっていない。 やるべきことも、山ほどある。 それでも今だけは。 千空の隣に戻ってこられたことが、ただ嬉しかった。
2026/05/11 <<<back

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